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  • ヘレン・ケラーって何をした人?小学生向けに解説
    ヘレン・ケラーって何をした人ヘレン・ケラーは、目が見えなくて、耳も聞こえないという、とても大きなハンデをもって生まれた女の人です。それでもあきらめずに、話すこと、読むこと、書くことを勉強して、世界中の人に希望をあたえた人なんです。子どものころヘレンはアメリカで生まれました。赤ちゃんのときに病気になって、目も耳も使えなくなってしまったんです。そのせいで、人と話すこともできず、どうやって気持ちを伝えたらいいのかわからなくて、毎日とてもつらかったそうです。サリバン先生との出会い7歳のとき、「サリバン先生」という先生が来て、手のひらに文字を書く方法でことばを教えてくれました。たとえば、「水」をさわっているときに、「W・A・T・E・R(ウォーター)」って先生が手に書いてくれたんだよ。そのとき、ヘレンは、「あっ!これが水の名前なんだ!」って、初めて“言葉”の意味がわかったんです。がんばって勉強!それからヘレンは、たくさんの努力をして、本を読んだり、自分の気持ちを書いたり、大学に行ったりしました。目が見えなくて、耳も聞こえなくて、声も出しにくかったのに、一生けんめいがんばって、世界中の人と心を通わせたんです。人をたすける活動も大人になったヘレンは、目が見えない人や耳が聞こえない人のために活動をしました。世界中をまわって、「あきらめなければ、どんなことだってできるんです!」と伝えつづけました。ヘレン・ケラーはこんな人!目も耳も不自由だったけど、努力してことばを学んだ人大学を出て、本を書いたり、スピーチをしたりした人目や耳にハンデがある人たちの力になった人世界中の人に、「がんばればきっとできるよ」と教えてくれた人ヘレン・ケラーに聞いてみた!AIがヘレン・ケラーになり小学生からの質問に答えてもらいました。見えなくて聞こえないのに、どうやって話せるようになったの?AIヘレンケラーこんにちは。わたしは目も見えず、耳も聞こえませんでした。だから最初は、言葉の意味もわからず、とてもこまっていました。でもね、サリバン先生が「手のひらに文字を書く」という方法で、わたしに言葉を教えてくれたの。たとえば、水を触っているときに、先生がわたしの手に「W・A・T・E・R」って書いてくれたんです。そのとき、「あっ!この冷たいものが“水”って言うんだ!」ってわかったの。それからわたしは、手話や点字、そして特別な方法で「声を出す練習」もがんばったの。時間はかかったけど、話せるようになったのは、先生のおかげです。サリバン先生ってどんな人だったの?AIヘレンケラーサリバン先生は、わたしの先生であり、お母さんのような人でもありました。とてもやさしくて、でもあきらめない強い心を持っている人です。わたしがわがままを言っても、怒らずにじっと見守ってくれて、何度も何度も言葉を教えてくれました。サリバン先生がいなかったら、わたしはこんなふうにたくさんの人と気持ちを伝えあうこともできなかったと思います。わたしの人生で、一番大切な人です。何かを初めて“わかった”って思ったときはどんな気持ちだった?AIヘレンケラーわたしが「水」という言葉を初めて理解したとき、とてもびっくりしました。まるでまっ暗な世界に光がさしたみたいに、心の中がパッと明るくなったんです。「言葉って、こんなにすてきなものなんだ!」って思って、うれしくて、うれしくて、泣いてしまいました。そこから、世界がどんどん広がっていきました。いちばんうれしかったことは何ですか?AIヘレンケラーいちばんうれしかったのは、「たくさんの人と気持ちをわかり合えるようになったこと」です。わたしは見えないし、聞こえないし、話すこともむずかしかった。だから、子どものころはいつも一人ぼっちでした。でも言葉を学んでからは、「ありがとう」や「大好き」って気持ちを人に伝えられるようになったの。それが、本当にうれしいことでした。苦しいとき、あきらめたくならなかったの?AIヘレンケラーもちろん、つらいときもたくさんありました。「どうしてわたしだけ…」って泣いたこともあります。でも、サリバン先生や家族が、いつもそばにいてくれたから、わたしはあきらめませんでした。わたしは「できない」ことより、「やってみよう」と思うことのほうが大事だと気づいたんです。だから、みなさんも苦しいときがあったら、「自分はひとりじゃない」って思い出してね。ヘレン・ケラーとサリバン先生の会話を再現ヘレン・ケラーが「水」の意味がわかったときのサリバン先生との会話を再現してみました。サリバン先生(ヘレンの手に“W・A・T・E・R”と書く)ヘレン、これは“ウォーター”、水よ。ヘレンケラーつめたい。さらさらしてる……サリバン先生そう、それが“水”。あなたの手にふれているものの名前よ。ヘレンケラーわ、わかった!これが“水”なんだ!ことばだ!これが、ことば!サリバン先生(笑顔で)そうよ、ヘレン。あなたは今、世界とつながったの。ヘレンケラーもっと教えて!もっとことばを知りたい!サリバン先生もちろん。あなたならきっと、何でもできるようになるわ。ヘレンケラーありがとう、先生!ありがとう!ヘレン・ケラーが残した有名な言葉は?ヘレン・ケラーは有名な言葉をいくつも残しています。その中でもいまの私たちにとっても大切な言葉を紹介します。わたしたちは、ひとりでは何もできません。いっしょになってこそ、大きなことができるのです。一人ではできることが少なくても、みんなで力を合わせれば、大きなことができるよというメッセージです。目が見えることよりも、見ようとする心が大切です。目が見えるかどうかよりも、「こうしたい」「こうなりたい」という夢や思いをもつことが大切なんだよ、という言葉です。世界は苦しみでいっぱいだけど、それを乗りこえた人たちであふれています。世界にはたくさんの苦しみがあるけれど、それに負けずにがんばっている人もたくさんいるよ、という励ましの言葉です。関連ページ:あの人って何をした人なの?渋沢栄一って何をした人(小学生向けに解説)新一万円札の肖像になる「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」はどんな人で何をした人なのかを小学生向けにわかりやすく解説しています。渋沢栄一の年表も掲載しているので調べ学習の参考にしてみて下さい。津田梅子って何をした人(小学生向けに解説)新五千円札の肖像になる「津田梅子(つだうめこ)」はどんな人で何をした人なのかを小学生向けにわかりやすく解説しています。津田梅子(つだ うめこ)は、日本の教育者で、女性のための教育に大きく貢献した人です。むかしの日本では女の子がしっかり勉強する機会があまりありませんでした。その状況を変えるために頑張ったのが津田梅子です。北里柴三郎って何をした人(小学生向けに解説)新千円札の肖像になる「北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)」はどんな人で何をした人なのかを小学生向けにわかりやすく解説しています。北里柴三郎のニックネームや呼び名一覧。千円札の肖像になった人物一覧も掲載。中大兄皇子って何をした人?小学生にもわかるすごい仕事5つ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がしたことを小学生向けに解説。のちに「天智天皇(てんじてんのう)」となった中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに乙巳の変で蘇我氏を倒し、大化の改新を行いました。行基って何した人?小学生向けに解説行基って何をした人なのかを先生と児童の対話形式で小学生向けに解説。行基の有名なエピソード、行基クイズも掲載しています。行基が生きていたのは、奈良時代。今から1300年くらい前のことで、奈良の平城京という場所が日本の都だったころです。
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  • 中大兄皇子って何をした人?小学生にもわかるすごい仕事5つ
    中大兄皇子ってどんな人?未来の天皇、中大兄皇子の正体!中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、昔の日本を大きく変えた「日本の大改革リーダー」です。飛鳥時代の皇族で、のちに「天智天皇(てんじてんのう)」となりました。この時代、日本はまだ国のしくみがしっかりしていなくて、力をもった豪族(ごうぞく)たちが好き勝手していたんだ。そんな中、国をまとめて強くするために立ち上がったのが中大兄皇子です。彼は仲間の中臣鎌足(なかとみのかまたり)といっしょに、大きな改革を始めました。中大兄皇子が活躍した時代中大兄皇子が活躍した飛鳥時代の中ごろ、日本では「蘇我氏(そがし)」という有力な一族が強い力を持っていました。もともと天皇を助ける立場だったのに、自分たちの思いどおりに政治を動かし、天皇よりも力があるような状態になっていたのです。そのころ、日本には中国(当時の「唐(とう)」)や朝鮮の進んだ文化や政治のしくみが伝わってきていました。中大兄皇子は、こうした新しい知識をもとに、日本でも天皇中心の国づくりをめざそうと考えます。そこで、中大兄皇子は、中臣鎌足と協力し、ついに645年に蘇我氏をたおします。これが「大化の改新(たいかのかいしん)」のはじまりです。中国の制度を手本にして、土地や人々を国のものとするしくみ(公地公民)など、大きな改革を行いました。この時代、日本はまだ小さな豪族たちがそれぞれの土地を支配していましたが、中大兄皇子はそれをまとめて、天皇の力を強くする国づくりを進めたのです。これが、のちの「律令国家」へとつながっていきます。大化の改新と乙巳の変(いっしのへん)中大兄皇子と中臣鎌足が645年に宮中で蘇我入鹿(そがのいるか)をたおしました。これが「乙巳の変(いっしのへん)」とよばれる事件です。中大兄皇子たちは蘇我氏をたおしたあと、新しい国づくりを始めます。これが「大化の改新」です。つまり、「乙巳の変」は改革のきっかけになった事件で、「大化の改新」はそのあとに行われた政治の大改革のことです。中大兄皇子がしたこと5つにまとめてみた蘇我氏をたおして政治をあらためた!当時の日本では、「蘇我入鹿(そがのいるか)」という豪族が、とても強い力を持っていた。でも、力がありすぎて天皇よりも偉そうにしていたんだ。これはさすがにまずい!そこで中大兄皇子と中臣鎌足は、「これは国をよくするために必要だ」と決意して、蘇我入鹿をたおした。この事件を「乙巳の変」とよびます。これが日本の政治を変える第一歩!「天皇中心の国」を作るためのスタートでした。大化の改新を行った!蘇我氏をたおしたあとは、「大化の改新(たいかのかいしん)」という大改革を始めます。当時、土地や人は豪族のものだったけど、それでは国がバラバラのまま。そこで中大兄皇子は、「土地も人も天皇のものにする」=「公地公民(こうちこうみん)」というしくみをつくりました。これで「天皇を中心とした国づくり」が少しずつ形になっていくんだよ。改革ってカンタンじゃないけど、やらないと国は変わらない。その勇気と行動力がすごい!戸籍や税のしくみを作った!国をまとめるには、「誰がどこに住んでいて、どれくらいの土地をもっているか」をちゃんと記録する必要があります。そこで中大兄皇子たちは「戸籍(こせき)」を作り、人々の名前や家族、土地のことを記録するしくみをスタート。それに合わせて、税金をきちんと集める「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」という制度も考案。これがあるおかげで、国はお金を集めて道や建物を作れるようになりました。中国のやり方を学んで取り入れた!当時の中国(唐:とう)は、アジアでいちばん発展していた国。中大兄皇子は、「日本もこんな国になりたい!」と考えて、遣唐使という使いの人たちを中国に送って、いろいろ学んだんだ。学んだのは政治のやり方だけじゃない。仏教や法律、衣服や文化など、いろんなことを取り入れて、日本の国づくりに生かしたよ。「いいと思ったものは、どんどん学ぶ」。それも、国を変える大事な力だったんだね。天智天皇として新しい都をつくった!中大兄皇子は、のちに「天智天皇(てんじてんのう)」となって、国づくりを進めました。そのときに作ったのが「近江大津宮(おうみのおおつのみや)」という新しい都(みやこ)。今でいう滋賀県の大津市にあたる場所だね。ここを政治の中心にして、国のルールやしくみを整えたりと改革を続けました。天智天皇の時代は、のちの「律令国家(りつりょうこっか)」へとつながっていく大事な時期となりました。
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  • 聖武天皇がしたスゴイこと10選、キミはいくつ知ってる?
    聖武天皇がしたこと10選。いくつ知ってる?奈良の大仏を作った!知ってた? 大仏の正式な名前は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」。奈良の大仏は聖武天皇が作るよう命じたものです。高さは約15メートル、重さは250トン以上!みんなの幸せと平和を願って、全国の人たちの協力で完成しました。東大寺を建てた!大仏+東大寺=国のしあわせを願う「大事業」だった!奈良の大仏があるお寺、それが東大寺(とうだいじ)です。大仏をまつるために作られたお寺で、今でも多くの人が訪れる名所になっています。この東大寺も、聖武天皇の時代に建てられました。国ごとに「国分寺・国分尼寺」を作った!いまも「〇〇国分寺」という名前のお寺が各地に残っているよ!聖武天皇は、「全国にお寺を作ろう!」と考えました。それが「国分寺(こくぶんじ)」と「国分尼寺(こくぶんにじ)」。各地に同じようなお寺を作って、仏教の力で国を守ろうとしました。正倉院を作った!中には、シルクロードを通ってきた品もあるんだって!「正倉院(しょうそういん)」って聞いたことありますか?これは、聖武天皇の宝物をしまっておく「お宝の倉庫」!当時の貴重な品が、今でも残っていて、奈良時代のくらしを知る手がかりになっています。戸籍をつくった!正しく人びとを知ることで、国をすみずみまで支えようとしたんだ!今の日本でも使われている「戸籍(こせき)」のもとになるしくみを作ったのも、聖武天皇。人びとの名前や年れい、住んでいる場所などを記録して、税や労働の管理に使っていました。光明皇后と力を合わせた!病院のような施設「悲田院(ひでんいん)」もこの時代に作られたんだ。聖武天皇の奥さん、光明皇后(こうみょうこうごう)は、病気の人を助ける施設を作ったことで有名。ふたりは力を合わせて、人びとのために動いた「思いやりコンビ」でした。お経を集めて広めた!たくさんのお経がまとめられ、写す仕事(写経)もさかんだったよ!仏教の教えを大切にしていた聖武天皇は、お経(仏教の教えが書かれた本)を全国に広めました。「仏教で心をひとつにして、平和な国にしよう」と考えました。天平文化が花開いた!倉院に残る楽器や服も、天平文化の一部なんだ!聖武天皇の時代は、「天平文化(てんぴょうぶんか)」と呼ばれる、すばらしい文化が広まりました。仏像、建築、絵画、音楽など、外国の文化と日本の文化がまじりあった、豪華な時代でした。災いをおさめるために仏教を大事にした!災いをなくし、心のやすらぎをみんなに届けようとしたんだね。天災(地震やききん)が続いたとき、聖武天皇は「仏教の力で国を守りたい」と考えました。それが、大仏づくりやお寺づくりの大きな理由のひとつでした。平和な国づくりを目指した!聖武天皇の時代の考え方は、今の時代にもつながっているかも!聖武天皇の「国づくり」は、戦いではなく心のしあわせと平和が目標。「仏教を信じ、国と人がともにしあわせになること」を本気で考えた、すごいリーダーでした。聖武天皇に関する基礎知識聖武天皇の関連年表701年聖武天皇が生まれる(お名前は首(おびと)王)。724年聖武天皇が即位(天皇になる)。728年皇太子(第一子・基王)が亡くなる。740年藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が起きる(九州での反乱)。741年国ごとに「国分寺・国分尼寺」を作るよう命じる。743年「大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)」を出し、大仏づくりを始めることを発表。745年東大寺の大仏の場所を現在の奈良に決める。749年聖武天皇が位をゆずり、娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位。聖武天皇は「上皇(じょうこう)」になる。752年東大寺の大仏開眼供養(かいげんくよう)が行われる(大仏の目に魂を入れる儀式)。756年聖武天皇が亡くなる(56歳)。遺品は「正倉院(しょうそういん)」に納められる。聖武天皇が大仏をつくった理由奈良時代(聖武天皇の時代)には、いくつもの大きな災いが日本中をおそっていました。たとえば、大きな地震や日照り、水不足によるききん(食べ物がとれないこと)、さらに「天然痘(てんねんとう)」という命にかかわる病気が全国に広がり、たくさんの人が亡くなりました。そのうえ、反乱も起きて、国の中は不安でいっぱいでした。こうした中で、聖武天皇は「この国の人々が安心してくらせるようにしたい」と強く思いました。そして、そのためには、人々の心をおちつけ、国全体に平和をもたらすものが必要だと考えたのです。当時、日本では仏教がとても大切にされていて、「仏の力は人々をまもる」と信じられていました。そこで聖武天皇は、「大きな仏さま(大仏)を作り、その力で国を守ってもらおう」と考えました。これが、奈良の「東大寺の大仏」をつくるきっかけです。743年、聖武天皇は「大仏をつくる」と正式に発表しました。このようにして、大仏は国の平和と人々の幸せを願ってつくられた、当時の人々の希望のしるしだったのです。聖武天皇が国分寺を建てた理由聖武天皇の時代、全国に大きな災いがありました。たとえば、大きな地震が起きたり、ききんや病気で多くの人が亡くなったりしました。さらに、九州では藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)という人物が反乱をおこし、国の中はとても不安定でした。聖武天皇は、「こんな時こそ、人々の心を一つにし、国をしっかりまとめていかなければならない」と考えました。そして、そのためには仏教の力をかりるのが一番よいと判断しました。なぜなら、仏教は「人々の苦しみをなくす」「平和な心を育てる」という教えだからです。741年、聖武天皇は「全国の国ごとに国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てなさい」と命じました。国分寺はお坊さんの寺、国分尼寺は女の修行者(尼さん)の寺です。これによって、全国の人々が仏さまの教えにふれ、心をおちつけることができるようにしたのです。また、全国に同じようなお寺をつくることで、「日本は一つの国なんだ」と人々に感じてもらうねらいもありました。つまり、国分寺は心のよりどころであると同時に、国を一つにまとめるための大切なしくみでもあったのです。
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  • 行基って何した人?小学生向けに解説
    行基って何をした人なの?対話で学ぶ)行基ってどんな人?今日は、奈良時代に活やくした「行基さん」についてお話しします。行基って聞いたことある?うーん、あまり聞いたことないです。お坊さんってことは知ってるけど、何をした人なの?いい質問だね!行基さんは、奈良時代に活躍したお坊さんで、いろんな人たちを助けるためにたくさんのことをしたんだよ。たとえば、どんな人を助けたと思う?えーと、お金がない人とか?そのとおり!当時は、農民や貧しい人たちがとても大変な思いをして生活していたんだけど、行基さんはそういう人たちのために池や橋、道路やお寺を作ったんだ。え!? お坊さんなのに工事までしてたの?そうなんだよ!しかも、行基さんは一人でやったわけじゃなくて、いろんな人に「みんなで助け合おう」って呼びかけて、協力して作ったんだ。すごいなあ。でも、どうしてそんなに人気があったの?それはね、人のために働いていたからなんだ。だから、たくさんの人が行基さんの考え方に共感して、集まってきたんだよ。最後には、天皇からも「すごい!」って言われて、大仏をつくるときにも手伝ったんだ。え! 奈良の大仏?そう!東大寺の大仏を作るためにも、行基さんは人を集めたり、材料を運んだりして、大活躍したんだよ。行基さんって、ただのお坊さんじゃなくて、スーパーヒーローみたいだね!ほんとだね。今でも、行基さんの像が奈良の駅前に立っているくらい、たくさんの人に尊敬されているんだよ。行基が活躍した「奈良時代」ってどんな時代?行基が生きていたのは、奈良時代です。今から1300年くらい前のことで、奈良の平城京という場所が日本の都だったころです。人々のくらしは大変だった!このころの人たちは、田んぼを作ってお米を育てながら生活していました。でも、今のように道も少なく、川に橋もなかったから、遠くへ行くのが大変だったんです。また、病気や水不足、貧しさで困っている人もたくさんいました。国はお寺づくりをがんばっていた!奈良時代は、仏教という教えが広まり、国が「お寺をたくさん作って、仏さまの力で国を守ろう!」と考えていました。だから、大きなお寺や仏像をたくさん作っていたんです。たとえば、あの有名な東大寺の大仏もこの時代につくられました。そんな中、行基が登場!そんな中で、行基というお坊さんがあらわれて、「困っている人を助けたい!」という思いから、池・橋・道・お寺などをみんなと協力して作ったんです。ふつうの人たちを大事にした行基の考え方は、当時ではとてもめずらしく、たくさんの人に感動をあたえたんですよ。行基が活躍した奈良時代はこんな時代だった!奈良時代は1300年前の昔国は仏教を広めて、お寺や大仏を作っていた人々のくらしは大変で、助けが必要だった行基はお坊さんとして、人々のために働いたヒーローだった!行基の有名なエピソード池を作って人々を助けた!昔は、水をためる池が少なくて、雨がふらないとお米が育たず、人々はとても困っていました。そんな中、行基は「農民たちを助けたい!」と思い、ため池を作る工事を始めました。でも、池を作るにはたくさんの人手やお金が必要。行基は、みんなに「困っている人のために手伝ってください」と呼びかけ、たくさんの人を集めて池を完成させました。この池のひとつが「狭山池(さやまいけ)」。今でも大阪に残っていて、日本で最も古い人工の池のひとつといわれています!天皇に認められて、大仏づくりを手伝った!行基が人々のためにがんばっていることは、ついに天皇にも伝わります。はじめは、国のきまりをやぶって人を集めていたため、役人ににらまれていた行基ですが…「あれ? 行基ってすごい人なんじゃない?」と天皇も考えるようになり、とうとう――「行基よ、大仏づくりを手伝ってくれ!」と、正式に国の仕事にえらばれたんです。それで行基は、大仏をつくるために、全国を回ってお金や材料を集める役目をはたしました。この大仏とは、奈良の東大寺の大仏です!「行基さんに会いたい」と大ぜいの人が集まった!行基が説法をすると、何百人、時には千人以上の人が集まりました。説法(せっぽう:仏さまの教えを話すこと)それを見た役人たちはびっくり!でも、行基がしているのは、人をだますことではなく、「みんなが幸せに生きられる方法」を教えているとわかり、しだいに国の人たちも協力するようになったんです。行基のエピソードまとめ困っている人を助けるために池を作った天皇にも認められて、大仏づくりを手伝ったお説法に人がたくさん集まり、人気者だったというように、「人のために生きたお坊さん」として、今も語りつがれています。気になったら、ぜひ奈良の「行基像」も見に行ってみてね!行基クイズ 〜君はどこまで知ってる?〜行基のことを知っているか確認三択クイズ第1問 行基が生きていた時代は?ア)奈良時代イ)平安時代ウ)鎌倉時代第2問 行基が人々を助けるために作ったものはどれ?ア)プールイ)動物園ウ)ため池第3問 行基が作るのを協力した大仏は?ア)法隆寺の大仏イ)東大寺の大仏ウ)高野山の大仏行基クイズ正解第1問:ア)奈良時代→平城京(へいじょうきょう)が都だったころだよ!第2問:ウ)ため池→雨がふらないと作物が育たない時代。ため池はとても大切だったんだ!第3問:イ)東大寺の大仏→行基の力を見こんで、天皇がたのんだんだよ!
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  • 平清盛がしたこと7選!小学生向けに解説
    平清盛がしたことを小学生向けに解説武士で初めて「一番えらい人」になった!平清盛は、武士でありながら朝廷の最高の役職「太政大臣(だいじょうだいじん)」にまでのぼりつめたすごい人物です。それまでは、政治の中心にいるのは貴族たちで、武士は戦うだけの仕事と思われていました。でも、清盛は戦でも活やくし、そして政治でも力をつけていき、ついに一番えらい役職にまで出世しました。これは、日本の歴史の中でとても大きなできごとでした。清盛の出世によって、武士という存在が日本の政治の中心に出てくるようになったのです。このことが、のちの「武士の時代」つまり「鎌倉時代」や「江戸時代」につながっていきます。清盛がいなければ、もしかすると武士の時代はもっと遅れていたかもしれませんね。平氏一族をトップにした!平清盛は、自分の家族や親せき(これを「一族」といいます)を大事な役職につけることで、「平氏(へいし)」という一族を国のトップにしました。今でいう「会社の社長の家族がみんな役員になる」ようなイメージです。清盛は、自分ひとりで力を持つだけでなく、一族全体で国を動かすようにしたのです。人々はその力の強さにおどろき、「平氏にあらずんば人にあらず(平氏でなければ人間ではない)」という言葉まで生まれました。それほどまでに、平氏が国を支配していたのです。ただし、あまりに力を持ちすぎたため、ほかの人たちからねたまれたり、反対されたりすることも増えていきました。保元の乱・平治の乱で勝った!平清盛が名を上げるきっかけになったのが、「保元の乱(ほうげんのらん)」と「平治の乱(へいじのらん)」という二つの戦いです。どちらも、朝廷の中での争いや、貴族どうしのけんかから始まりましたが、武士たちも巻きこまれる大きな内乱になりました。清盛は、この戦いで勝ち、「戦に強い武士」として一気に有名になりました。特に「平治の乱」では、ライバルだった源義朝(みなもとのよしとも)をたおし、その子どもである源頼朝(みなもとのよりとも)を伊豆(いず)に流しました。この勝利によって、清盛は「戦でも、政治でも、力を持つ男」として注目され、出世の道を進んでいったのです。この二つの乱がなかったら、清盛が歴史に名を残すことはなかったかもしれません。宋との貿易を始めた!平清盛は、外国との貿易にも力を入れました。特に、中国の「宋(そう)」という国との交流を大切にしました。清盛は、日本の港である「大輪田の泊(おおわだのとまり)」を今の神戸あたりに作り、そこから船を出して宋と物をやりとりしました。これによって、日本には宋から新しい文か、仏教の本、薬、布などが入ってきました。逆に日本からは刀、金、すずなどを送りました。貿易はおたがいの国にとってとても大事なもので、清盛はそれを早くから始めていたのです。このおかげで日本は海外の新しい考えや技術を学ぶことができました。今でいうと、「世界とつながるグローバルな政治家」だったとも言えるでしょう。天皇の外祖父になった!清盛の娘「徳子(とくし)」は、高倉天皇(たかくらてんのう)と結婚しました。二人の間には子どもが生まれ、その子が「安徳天皇(あんとくてんのう)」になりました。つまり、清盛は天皇の「外祖父(がいそふ)」=母方のおじいちゃんになったということです。これはとても大きなことで、政治の中でさらに強い立場になりました。天皇の祖父というだけで、清盛の言うことは強い力を持つようになります。清盛はこの関係を使って、自分たちの政治のやり方を進めました。ただし、このように家族ぐるみで政治を動かすやり方は、ほかの人たちから反感を買うことにもなりました。やりすぎると、まわりの人の反発が強くなるということですね。日宋貿易でお金をもうけた!平清盛は、宋との貿易を利用してたくさんのお金を手に入れました。そのお金で、船を作ったり、港をきれいにしたり、自分たちの家を立派にしたりしました。貿易というのは、ただ物を交換するだけでなく、大きなお金を動かすビジネスでもあります。清盛は、その仕組みをよく理解していて、国をゆたかにしようとしたのです。このお金は、自分の一族を支えるためにも使われ、平氏の力のもとになっていきました。また、お金があることで、武士や役人たちも平氏の味方になるようにしむけることができました。戦だけでなく、お金の使い方もうまかった清盛は、まさに「戦う政治家」だったと言えるでしょう。平家の世をつくったけれど…平清盛の時代、「平家(へいけ)」=平氏が国の中心にいて、「平家の世(よ)」と呼ばれる時代になりました。しかし、力を持ちすぎたことで、まわりの人々の反感が強くなっていきます。特に、伊豆に流された源頼朝が、後に挙兵(きょへい)して戦いを始めたことがきっかけで、平氏は少しずつ追いつめられていきました。清盛はその途中で病気になって亡くなってしまいます。その後、平家は源氏との戦いに敗れ、「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で安徳天皇とともに海に沈みました。清盛が作り上げた「平家の世」は、わずか30年ほどで終わってしまったのです。けれども、清盛が政治や経済で果たした役割は、とても大きなものでした。AI平清盛が小学生からの質問に答える!AIに平清盛になってもらって、小学生からの質問に答えてもらいました。「どうして武士なのに一番えらい人になれたの?」ほほう、よい質問じゃのう。わしは武士として、戦ではたらき、都のえらい人たちに信頼されるようになったのじゃ。特に「保元の乱」や「平治の乱」で勝ったことで、わしの力はぐんと強くなった。そのあと、朝廷の仕事もがんばって、「太政大臣」という役にまで登りつめたのじゃ。武士がえらくなるのはめずらしい時代だったが、わしがその道を切りひらいたんじゃぞ。「なんで外国と貿易しようと思ったの?」うむ。わしは、日本だけではなく、もっと大きな世界とつながりたいと思ったのじゃ。中国の「宋」という国は、文化も技術も進んでおって、そこから学ぶことはたくさんあると思ったんじゃ。それに、物を売ったり買ったりすれば、お金も手に入るし、日本の暮らしもよくなる。だから、港を作って、船を出して、外国と物のやりとりを始めたのじゃ。今でいう「グローバル社会」を目指したのう。「なんでそんなに一族を大事にしたの?」よいところに目をつけたのう。国をおさめるには、信頼できる人といっしょに動くことが大切じゃ。だから、わしは自分の家族や親せきを大事な役職につけて、国を一緒に支えてもらったのじゃ。もちろん、ねたまれることもあったが、「平氏の世」をつくるには、それが一番じゃと思ったんじゃよ。「なんで源頼朝を生かしておいたの?」ぐぬぬ…そこを聞くか…。実はな、源頼朝はまだ子どもで、すぐに力を持てるようには見えなかったのじゃ。だから、命を取らずに伊豆に流しただけだった。しかし、それがあやまりじゃった…。まさかのちに大きな力をつけて、わしの一族をたおすことになるとはのう…。わしの人生で唯一ともいえる、油断だったかもしれんのう。「今の子どもたちに伝えたいことはありますか?」あるとも!わしが伝えたいのは、「新しいことをおそれずに挑戦せよ」ということじゃ。わしは、武士なのに政治をし、外国とつながり、時代の流れを変えたつもりじゃ。それは、まわりに何と言われようと、自分で考えて動いたからこそできたことじゃ。みんなも、まわりと同じでなくても、自分の道を信じて進んでほしいのう。
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  • 織田信長がしたことを5つにまとめてみた(小学生調べ学習向け)
    織田信長はどんなことをした戦国武将だった?1.「桶狭間の戦い」で常識をくつがえす大勝利!1560年、織田信長がまだ尾張(おわり・今の愛知県あたり)だけを治めていたころ。そのとなりの「駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)」を治めていたのが今川義元(いまがわ・よしもと)という大名でした。今川氏は当時の「東海一の大大名」とよばれ、軍の強さや人数も全国トップレベル!そんな今川義元が、なんと2万以上の大軍を率いて、尾張へ攻めこんできたのです。信長の兵力はたったの2000人!?今川軍が2万人以上だったのに対して、信長の兵はわずか約2000人。10倍以上の差がある中での戦い。ふつうなら、「戦うまでもなく敗北」と思われるところでした。家来たちの中には「城にこもって守るべきです」と言う人もいましたが…。信長は、なんと自分から攻めに出ることを決めたのです!雨と地形を味方にした信長がとった作戦は、「奇襲(きしゅう)」。つまり、相手が油断しているすきに攻撃する方法です。その日は、大雨で視界が悪く、兵の動きを読みにくくなっていました。信長はこの天気を逆にチャンスととらえ、敵の本陣(ほんじん=大将のいるところ)を一気にねらいます。また、戦いの場所になった「桶狭間(おけはざま)」は、山と谷にかこまれた細い道のある場所。信長はそこに小部隊をかくして、敵の動きをじっと見はっていました。まさかの本陣攻撃!今川義元は大軍に自信をもっていたため、信長が正面から攻めてくるとは思っていませんでした。しかも雨で油断していたそのとき――信長軍は、谷から一気にかけのぼって、今川の本陣を急襲!今川義元はこの戦いで命をおとし、2万人の大軍は大混乱。信長の軍はたったの2000人で、今川義元をうちやぶるという歴史的大勝利をおさめました。この戦いのすごさってこの「桶狭間の戦い」は、日本の歴史でもトップクラスに有名な“逆転劇”です。ふつうなら勝てるはずのない戦いで、信長が勝てた理由は――敵のすきを見のがさなかったこと天気や地形など、「目に見えない条件」をうまく使ったことそして「自分なら勝てる!」という強い決断力と行動力つまり、信長は戦いのセンスとリーダーシップがずばぬけていたのです。この桶狭間の戦いで一気に全国に名が知れわたり、信長は「戦国の注目大名」へと成長していきます。2.鉄砲を使った新しい戦術を開発!戦国時代の戦(いくさ)といえば、「刀」「弓矢」「槍(やり)」が主な武器でした。そんな戦いの形をガラッと変えてしまったのが――そう、「鉄砲(てっぽう)」です!日本に鉄砲が伝わったのは1543年、ポルトガル人が種子島にやってきたとき。最初はめずらしい道具として見られていた鉄砲ですが、織田信長はこれにいち早く目をつけたのです。大量の鉄砲をそろえる信長は、日本中からたくさんの鉄砲を買い集めたり、自分の領地で作らせたりして、すばやく「鉄砲軍団」を作りました。ほかの大名たちは「鉄砲は高いし、当たるかどうかもわからない」と思って、なかなか本格的には使っていませんでした。でも信長は、「これは時代を変える武器だ!」と考えて、本気で取り入れたんです。長篠の戦い(ながしののたたかい)1575年、信長は徳川家康とともに強敵の武田勝頼の大軍と戦いました。この戦いが有名な「長篠の戦い」です。武田軍は「騎馬隊(きばたい)」という、馬に乗って突進してくる戦い方が得意でした。スピードと力で一気に攻めこむ武田軍に、ふつうなら太刀打ちできません。そこで、信長は鉄砲を使った「ある作戦」をくり出します。鉄砲三段撃ち(てっぽう・さんだんうち)信長が考えたのが、「鉄砲三段撃ち」とよばれる戦い方。鉄砲は、一発撃ったあとに火薬と玉をつめ直す必要があるので、すぐに連続して撃てないという弱点がありました。そこで信長は、鉄砲を持つ兵を3列に並ばせました。1列目が撃ったら、すぐに後ろにさがって次の列が撃つ。それが終わったら3列目。こうすることで、まるで鉄砲の雨のように、切れ目なく撃ち続けることができたのです!この新しい戦術で、スピードのある武田の騎馬隊をふせぎ、信長たちは大勝利をおさめました。信長は、ただ鉄砲をたくさん使っただけではなく、鉄砲の弱点を知り、それをカバーする新しい戦術を考えました。このように、「新しいものをすばやく取り入れて、工夫して使う」ことが、信長のすごさのひとつです。3.お寺や神社の力をおさえた!戦国時代には、大名たちだけでなく、お寺や神社も大きな力をもっていました。その中でも、「比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)」や「本願寺(ほんがんじ)」などは、自分たちで武装した兵(=僧兵・そうへい)を持っていて、ときには戦いにも加わっていました。たとえば、比叡山延暦寺は、京都の近くにあって、大きな経済力と政治への影響力を持っていました。信長は、「天下統一」の妨げになる存在として、こうした宗教勢力とも戦いました。比叡山焼きうち1571年、信長はついに「比叡山延暦寺」を攻めて、焼きはらってしまいます。これを「比叡山の焼きうち」と言います。これは、とてもはげしい行動で、多くの人々をおどろかせました。当時、お寺や神社は「けがれのない聖なる場所」とされていたため、そこを攻撃するのはタブー(やってはいけないこと)だったのです。ところが、信長は、「国をまとめるためには例外を作ってはいけない」と考え、あえてそのタブーを破りました。本願寺との戦いさらに信長は、大阪の「石山本願寺」とも10年以上にわたって戦いを続けます。本願寺は、たくさんの民衆に信じられていた宗教で、特に「一向一揆(いっこういっき)」とよばれる農民や武士の反乱をおこす力がありました。信長は、こうした民衆の力をあやつる宗教勢力にも強く対立しました。最終的に信長は本願寺と和解し、石山本願寺は退去します。なぜ信長は宗教勢力と戦ったの?信長が宗教勢力をおさえようとした理由は、「自分の政治を邪魔されないようにするため」でした。お寺や神社が自分の考えとちがう方向に人々を動かすと、国が一つにまとまりません。このため信長は、「信仰の自由は守るけれど、政治に口を出させない」という考えを持っていたのです。これは、今の社会でいう「宗教と政治の分離(ぶんり)」という考え方に近いものです。信長は、そんな近代的な考えを戦国時代にすでに持っていたとも言えるのです。【第六天魔王 信長】「第六天魔王(だいろくてんまおう)」というのは、仏教(ぶっきょう)で出てくる悪い神さまの名前です。織田信長は書状の中で自らを「第六天魔王 信長」と名乗っていました。その理由は「仏教の力に逆らう強い気持ちを見せるため」「恐れられる存在としてアピールするため」と言われています。4.見せるためのお城「安土城」を建てた!織田信長といえば、戦が強いだけではなく、「人の心を動かすしかけ」をつくるのがとてもうまい人物でした。その代表的なものが、「安土城(あづちじょう)」です。それまでのお城はどうだった?信長より前の時代のお城は、山の上や山の中腹にあって、敵の攻めにそなえるための“守る場所”でした。石や土でできたかたいかべ木のやぐらや高い見張り台住む人より、守るための工夫がたくさんつまり、お城は「戦いにそなえるための施設」というイメージだったんです。信長の「城」に対する斬新な考え方信長が1576年に建て始めた「安土城」は、それまでの城とはちがいました。まず場所。山のてっぺんではなく、琵琶湖(びわこ)に近い「人が行き来する場所」に建てたのです。それは、「たくさんの人の目にふれるようにしたい」という思いがあったから。そして、デザインも超ゴージャス!天守は7階建て!(当時ではびっくり)金や赤などのあざやかな色づかい天井やふすまには、プロの絵師が描いた豪華な絵まるで「お城」+「美術館」+「迎賓館(外国からの大事なお客さんをもてなす施設)」のような建物でした。「力」と「文化」のアピール!安土城は、ただ敵から身を守るだけでなく、自分はすごい力を持っているぞ新しい時代をつくるリーダーだぞということを、見に来る人すべてに伝えるための「アピールの城」だったのです。なぜ今は残っていないの?このすごかった安土城、実は信長が亡くなったあとに火事で焼けてしまい、いまは建物そのものは残っていません。でも、石垣や当時の地図、記録などから、どれだけすごい城だったかがわかってきています。5.「楽市楽座」で商人を自由に!昔の日本では、商人(しょうにん)が店を出すには「座(ざ)」というグループに入らなければなりませんでした。信長はこのしくみをなくし、だれでも自由に商売ができる「楽市楽座(らくいちらくざ)」という制度を作りました。これにより、たくさんの人が町にあつまり、お金のやりとりが活発になりました。信長は、「戦い」だけでなく「経済」も動かしていたのです。信長が変えた経済のしくみ信長は「もっと商人が自由に商売できたほうが、町も人も元気になるはずだ!」と考えました。そこで、出した命令が「楽市楽座令(らくいちらくざれい)」。だれでも自由に市(いち)を開いて、物を売っていい「座(ざ)」などの特別なグループの特権(とっけん)をなくす商売をする人から税金をとらない寺や神社の力をおさえて、町を武士や大名が管理するようにする「楽(らく)に市(いち)を開けて、楽(らく)に座(ざ)に入らなくてもいい」から「楽市楽座」と呼びました。町がにぎやかに!信長の楽市楽座によって次のような効果がありました。新しいお店や商人がどんどん増える商品の種類がふえる(食べ物・道具・布・薬など)町の人たちも買い物が楽しくなるお金の流れがよくなって、町が豊かになる城下町(じょうかまち)が発展するとくに安土城のまわりには、信長が「自由な市」を開いたことで、多くの人が集まり、にぎやかな商人の町になりました。今の時代に通じる信長の考えこの「楽市楽座」の考え方は、今でいうと…誰でもネットショップやフリーマーケットで自由に商売ができる起業やビジネスを始める人にチャンスが広がる大きな会社だけでなく、小さな会社もがんばれるようにするといった、「自由な経済活動」のスタートとも言えます。織田信長の調べ学習で使える基礎資料織田信長の年表1534年尾張国(おわりのくに、今の愛知県)に生まれる1548年美濃国・斎藤道三の娘の「濃姫(のうひめ)」と結婚1552年父・信秀(のぶひで)死去。信長が家をつぐ1560年桶狭間の戦い(おけはざま):今川義元をうち大名として有名になる!1562年松平元康(徳川家康)と清州同盟を結ぶ1567年美濃を平定。「岐阜(ぎふ)」と名づける。「天下布武(てんかふぶ)」の印を使い始める1570年姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍とたたかう1570年本願寺顕如と対立し、石山合戦が始まる1571年比叡山焼き討ち1572年三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れる(徳川家康との連合軍)1573年将軍・足利義昭を京都から追放、室町幕府がほろびる1575年長篠の戦いで鉄砲を使って武田軍をやぶる1579年安土城が完成1582年本能寺の変で自害織田信長の有名なセリフ人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなりこれは信長が好んでうたった舞(まい)の歌の一節で、とても有名です。意味は「人の一生なんて、天の時間にくらべたら夢のように短い」ってこと。「下天」は「げてん」と読みます。是非に及ばず(ぜひにおよばず)これは本能寺の変のとき、家来の明智光秀に裏切られて、攻め込まれたときに言ったとされる言葉。意味は「こうなったら仕方ない。ぐずぐず考えているヒマはない」という感じ。AI織田信長に聞いてみた!わしが織田信長じゃ!戦国の世を駆け抜けた、この信長公が、小学生の質問になんでも答えてやろうぞ!さあ、なんでも聞いてみよ!AIに織田信長になってもらい、小学生の質問をぶつけてみました。AI信長は何と答えたのでしょうか?いちばんの強敵は誰でしたか?うむ、良い質問じゃ!わし・織田信長にとっていちばんの強敵…それは――武田信玄(たけだ しんげん)**じゃ!信玄は甲斐(かい、今の山梨県)を治めておった戦国最強クラスの軍団の大将。特に「騎馬軍団(きばぐんだん)」の強さは天下に知られておったわ!あの男が元気なままで尾張(わしの国)へ攻めこんでおったら、どうなっていたか…考えるだけでもゾッとするわい。他の戦国大名より自分が優れていると思うのはどんなところ?ほほう!またまた良い質問じゃな!わし・織田信長が他の戦国大名よりも優れておったと思うのは――「新しいものをどんどん取り入れる力」じゃ!ほとんどの戦国大名は昔のやり方にこだわっとった。けれど、わしは違う!時代を変えるには、変わる勇気がいるんじゃ!たとえばこんなことをやったぞ!1.鉄砲を戦に使った最初の男!昔の戦いは弓矢や刀が中心じゃったが、わしはポルトガルから来た鉄砲(てっぽう)に目をつけて、大量に買って戦に使ったんじゃ!長篠(ながしの)の戦いでは、鉄砲三千丁で武田軍に勝ったぞ!2.石の城を初めて本格的につくった!安土城(あづちじょう)という、超カッコいいお城をつくったんじゃ。それまでの城は木ばかりだったが、**石の土台と高い天守(てんしゅ)**で、まるでお城が空にそびえるようじゃった!3.宗教にも負けんかった!昔の武将はお寺や神さまに逆らえんかったが、わしは仏教のお坊さんたちが力を持ちすぎておるのを止めたんじゃ。比叡山(ひえいざん)を焼き討ちしたのも、「人々を守るため」じゃと、わしは思うておる!つまり、わしはただの戦い好きじゃない。「新しい時代をつくる男」じゃったのよ!木下藤吉郎(豊臣秀吉)のことをどう思う?おお、木下藤吉郎のことか!今で言うところの「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」じゃな。あやつは――「ただのサルじゃが、とんでもない天才」じゃ!わしが初めて藤吉郎を見たとき小さくて、日焼けして、動き回る様子はまるでサル。最初は「なんじゃこの者は」と思ったが、すぐに気づいた。こやつ、頭がキレる!人をまとめる力もある!と。わしの草履(ぞうり)をあたためて差し出した話は有名じゃな。あれはただの気づかいではない、相手の心を読む力のあらわれじゃ。藤吉郎のすごいところわしの命令をただの「作業」としてではなく、「どうすればもっとよくなるか」を考えて動いた。戦でも交渉でも、工夫とアイデアがずば抜けておった。人たらしじゃ!誰とでも仲良くなり、兵士たちの心をガッチリつかんだ。正直なところあやつは、わしに似ておるが、わしとは違うタイプじゃ。わしが道を切り開いたあと、その道を走って天下を取ったのが秀吉よ。だから――「信長が道をつくり、秀吉が走り、家康がその道に町をつくった」と言われることもあるのう。わしから見ても、あやつは一生に一人出るか出ないかの逸材じゃ。ただし、調子に乗ると踊りだすから、そこはやっぱりサルじゃな!明智光秀のことをどう思ってる?わしにとって、「最も信頼し、最も裏切られた男」じゃ。最初の光秀:知恵者でまじめな家臣光秀は学問にすぐれ、礼儀正しく、話もうまい。最初のころ、わしは「こやつは他の武将とは違う」と思うた。比叡山焼き討ちや将軍・足利義昭とのやりとりでも、丹波(たんば)の国を平定したときも、まことに良く働いた。じゃから、わしは大きな役目を何度も任せたんじゃ。なのに、なぜ本能寺で裏切ったのか?1582年6月、本能寺におるとき、光秀は突然、わしの命を狙って兵を出した――。「敵は本能寺にあり!」と言うてな。まさか、家臣の中でもっともまじめだった光秀が裏切るとは、夢にも思わんかったわ。わしの正直な気持ちあやつがなぜ裏切ったか、今でも「本当の理由」はわからん。「信長に冷たくされたから」とか、「出世できぬと思ったから」とか、いろいろ言われておるが、わしには聞くすべもない。じゃが、ひとつだけ言えるのは――「人は信じるにたる者でも、心の中までは読めぬ」ということじゃ。どうして比叡山を焼き討ちにしたの?わしが比叡山(ひえいざん)を焼き討ちにした理由――それは…「仏の名をかたり、戦にくちばしをはさむ者をゆるさん!」という、わしの覚悟と決意じゃ!比叡山延暦寺とは何か?比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)は、「仏教の総本山」ともいえる、古くから続く大寺じゃ。天台宗という宗派で、学問と修行の場でもあった。しかし――実は、ただの寺ではなかった。武装した僧兵(そうへい)をたくさんかかえ、政治や戦(いくさ)にも口を出し、領地からは税を取りまくり、ときにはわしの敵と手を組み、後ろから刺そうとする始末…。わしが怒った理由わしが近江(おうみ、今の滋賀県)を治めようとしておったとき、浅井長政(あざい ながまさ)・朝倉義景(あさくら よしかげ)という敵と戦っておった。そのとき、比叡山の者たちは――「仏の教えを守る寺でございます〜」と言いながら、敵の味方をした!じゃから言うたのじゃ「仏をかたりながら、人を殺し、戦に手を出す。そんな寺、もはや仏の道にあらず!」「正義の名のもとに、すべて焼き払え!」とな。焼き討ちの結果天正元年(1571年)、わしの軍勢は比叡山に火を放った。寺も、僧兵も、隠れていた者たちも、ほとんど焼けた。これには世間も驚き、「信長は鬼か!」という者もいた。しかしわしは言うた。「鬼でもかまわぬ。この国を正すためならば!」とな。好きな教科はナニ?好きな教科は――「歴史」と「地理」じゃ!なぜ「歴史」が好きか?わしは、昔の人物の生きざまや、戦のやり方、国の動きを学ぶのが大好きじゃった。歴史を知れば――人の心の動きがわかる!なぜ国が滅び、なぜ天下が動いたかが見える!そして、同じ失敗をせずにすむ!つまり、歴史を知ることは、天下をとるための「武器」になるのじゃ!なぜ「地理」が好きか?戦(いくさ)では、地形(ちけい)を読む力が超大事じゃ!川がどこに流れているか。山の高さ、道の広さ。雨が多いか少ないか。どの町がにぎわっているか。それを知っておる者こそ、戦でも政治でも勝てるのじゃ!信長の本音ほんとうは「勉強より戦が好きそう」と思われがちじゃが、わしは学ぶことが、最強の力になると信じておった!「本を読まずして天下を語るなかれ!」とも言うとったぞ!
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  • 豊臣秀吉がしたことを5つにまとめてみた(小学生向け調べ学習用)
    豊臣秀吉がした5つのこと天下統一を完成させた豊臣秀吉は、もともと織田信長の家来でした。信長は「天下統一」を目指して各地を攻めていましたが、1582年、「本能寺の変」で家来の明智光秀に裏切られて命を落とします。信長の死後、秀吉はすぐに動き、山崎の戦いで光秀を討ち取りました。これによって、信長の後継ぎ争いに勝ち、力を強めていきます。その後、各地の大名を次々に従わせ、1585年に関白となり、1590年には小田原を中心とする北条氏を滅ぼして、「天下統一」を成し遂げました。太閤検地を行った秀吉は、国をしっかり治めるために「太閤検地(たいこうけんち)」を行いました。「検地」とは、田んぼや畑の広さや、そこからとれるお米の量を正しく調べることです。それまで土地の広さや持ち主はあいまいだったため、不公平なことが多く起きていました。秀吉は全国の土地を調べて、「誰が」「どれくらいの田んぼを持っているか」を記録し、年貢=税金として納めるお米の量をはっきり決めたのです。この検地によって、農民は土地にしっかりしがみつくことができ、大名も安心して国を治められるようになりました。太閤検地では、「石高(こくだか)」という単位が使われます。1石(こく)はお米が約150kg、だいたい人が1年間食べる量にあたります。この「石高」によって、領地の力(経済力)が数字で示されるようになりました。太閤検地は、江戸時代のしくみのもとにもなった、とても重要な改革です。刀狩を行った豊臣秀吉は、1590年ごろから「刀狩(かたながり)」という政策を進めました。これは、農民たちが持っていた刀や弓、槍(やり)などの武器を集めて取り上げることです。なぜこんなことをしたのでしょうか?それは、農民たちが反乱を起こすのを防ぐためです。当時の日本では、農民の中にも武器を持っている人が多く、時には反乱を起こして国を乱すことがありました。秀吉は、「武士」と「農民」の区別をはっきりさせ、農民は田んぼを作ることに専念させるために刀狩を行ったのです。集めた武器は、奈良の大仏殿(だいぶつでん)を作る材料にした、とも言われています。これによって、国は平和に近づき、農業も安定しました。刀狩は、武士と農民をはっきり区別する「身分制度」のスタートでもあり、のちの江戸時代の社会づくりにもつながっていきます。朝鮮出兵をした豊臣秀吉は、日本だけでは満足せず、海外にも目を向けました。1592年、朝鮮半島に大軍を送る「朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)」を始めます。中国の明(みん)を征服しようと考え、その通り道である朝鮮を攻めたのです。この戦いは「文禄(ぶんろく)の役」と呼ばれます。最初は日本軍が優勢でしたが、やがて朝鮮軍や明の援軍の反撃にあい、思うように進みませんでした。一時休戦したものの、1597年にはふたたび戦いが始まります(「慶長(けいちょう)の役」)。しかし、秀吉が1598年に亡くなると、日本軍はすぐに引き上げました。朝鮮出兵は、日本にとっても多くの犠牲を出し、国の力を消耗させた戦いでした。大阪城を築いた豊臣秀吉は、自分の権力を全国に示すために、大きくて立派な城を築きました。それが「大阪城」です。1583年ごろから建設が始まり、当時としてはとても大きく、豪華な城でした。大阪城は、周りを堀(ほり)と高い石垣(いしがき)でかため、敵が簡単には攻め落とせないように作られていました。また、天守閣とよばれる高い建物もあり、金箔を使ったきらびやかな装飾もほどこされました。この大阪城は、ただの城ではありません。秀吉が「天下を取ったぞ!」ということを日本中にアピールするための象徴でもあったのです。のちに徳川家康との「大坂の陣」で大阪城は攻め落とされ、豊臣家は滅亡しますが、大阪城は今も観光名所として多くの人に親しまれています。AI豊臣秀吉が小学生の質問に答える!AIが豊臣秀吉になり切って小学生からの質問に答えます。関白ってどんな仕事だったの?どうしてなれたの?AI秀吉関白とは、天皇さまの代わりに政治をする偉い役目じゃ。もとは貴族がなるものじゃったが、わしの力と知恵を認められて、特別にならせてもらったんじゃ。百姓あがりでは前代未聞じゃぞ!「刀狩り」ってなんのためにしたの?AI秀吉うむ、刀狩りは、百姓が武器を持って反乱を起こさぬようにするためじゃ。戦が終わったら、武器はいらん。みなが農業に専念できるよう、安心して暮らせるようにしたかったんじゃよ。朝鮮に戦いに行ったのはなぜ?日本だけじゃダメだったの?AI秀吉ふふふ、わしはもっと大きな夢を持っておった。中国(明)を手に入れて、大きな国を作りたかったんじゃ。そのために朝鮮を通って攻めようとしたのじゃが……思ったより手ごわかったのう。戦った相手で一番強かったのは誰?AI秀吉柴田勝家(しばた かついえ)。こやつが、わしにとって最初にして最大の強敵じゃった!天正11年(1583年)の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、信長さまの死後、後継ぎ争いでわしと勝家がぶつかった。勝家は経験豊富な武将で、戦いぶりも豪胆そのもの。兵も多く、わしにとっては大ピンチじゃったが……そこでわしの家臣・福島正則や加藤清正らが大活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」として名をあげたんじゃ。わしはすばやく軍を動かして勝家を破った。あれはまさに、「知恵」と「スピード」で勝った戦じゃな。信長がこわくなかったの?AI秀吉めちゃくちゃ、こわかったぞ!あの方はな、目がすわっていて、機嫌が悪いと家臣をバッサリ切ることもあった。下っ端のころは、そりゃもう、ピリピリじゃ。でもな、信長さまは「できる者はどんどん出世させる」お方じゃ。わしのような身分の低い者にもチャンスをくださった。それが、うれしかったんじゃよ。こわかったけれど、心の底から尊敬しておった。わしが天下を取れたのも、信長さまのそばで学べたからじゃ。信長さまが本能寺で倒れたとき、わしは心の中でこう叫んだんじゃ。「信長さま、ここからはわしがやりまする!」とな。信長さまはこわいけど、すごい人。わしはその背中を見て育ったんじゃ。怒られても、がんばる気持ちを忘れなかった。それが、わしの出世のもとじゃよ!徳川家康のことをどう思う?AI秀吉おお、またもや気になるところを聞いてくるのう!―「徳川家康のことをどう思うか?」じゃと?それはのう……ずばり、「油断ならぬキツネのような男」じゃ。見た目はおだやかで、のんびりしているように見えるが、心の中では常に計算し、じっとチャンスをうかがっておる。しかも、我慢強い。わしがイライラしておるころでも、家康は笑って何も言わん。だが、それがこわいんじゃ……。わしが生きておるうちは、重く用いておった。天下統一のためには、家康の力も必要じゃったからのう。「お主は東国(関東)をまかせる」と言って、立派な城も与えておったんじゃ。じゃが……わしが死んだあと、やはり動いたのう。息子・秀頼の代で、家康はとうとう「将軍」になり、豊臣を押しのけて天下を取ったんじゃ。正直に言えば――「うまくやりおったな、家康め!」「じゃが、わしのような派手さはなかったのう!」じゃ。わしは金ぴかの城に、天下統一の夢!家康は地味にコツコツ、でも最後はしっかり勝ち残る。そんな男よ。いま日本では、お米が高くなって困っているんですが、秀吉さんならどうしますか?AI秀吉おお、それはなかなかの難題じゃのう……。米が高くて人々が困っておるとな!?――ならば、わし、豊臣秀吉が出てまいろう!秀吉ならどうする? 〜太閤流・お米対策〜「米のたくわえ」を調べさせる!まずは全国の米の収穫と在庫をしっかり調べる。これはわしがやった「太閤検地(たいこうけんち)」の出番じゃ!誰の土地に、どれだけ米がとれて、どこに保管されているか――。それを正しく知ることが、まず第一じゃ!米以外の作物も広める!米だけが食べ物ではない。わしは「芋」「麦」「雑穀」なども育てるように命じるじゃろう。食べものの選択肢を広げて、みんなが食べられるようにするんじゃ!「米の市場」を安定させる米の値段が急に上がったり下がったりすると、民は困る。わしは「米座(こめざ)」をつくって、値段が安定するしくみを考えるぞい。市場にまかせきりではあかん。天下人の目が届いてこそ、民は安心して暮らせるのじゃ!一番大事なのは、「民を思う心」じゃ!わしが農民出身だからこそ、「食えぬつらさ」は骨身にしみてわかっておる!民が腹をすかせて笑えぬ国に、天下の価値はない。だからこそ、わしは民が飢えぬように、手を尽くすのじゃ!最後にひとこと(太閤節)「米が高けりゃ、知恵で下げよ!」「民の暮らしを守るのが、天下人のつとめじゃ!」わしなら――まず米を調べ、かくす者をただし、みんなが食える世にしてみせる!それが豊臣秀吉という男よ!豊臣秀吉の調べ学習ヒント豊臣秀吉の年表1537年尾張国(今の愛知県)の貧しい家に生まれる(幼名:日吉丸)1560年頃織田信長につかえる。足軽(あしがる)からスタート1566年墨俣城を一夜で築く1570年姉川の戦い1582年本能寺の変、山崎の戦いで明智光秀を破る1583年賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家に勝利1584年小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦う1585年関白(かんぱく)になる1586年太政大臣(だいじょうだいじん)に就任、「豊臣」姓をもらう1590年小田原攻めで北条氏を滅ぼし、天下統一を完成させる1592年文禄の役(最初の朝鮮出兵)を始める1597年慶長の役(2度目の朝鮮出兵)を始める1598年死去(享年62歳)豊臣秀吉の有名なエピソード草履取り(ぞうりとり)のエピソード若いころ、秀吉は織田信長に仕える下働き「草履取り」をしていました。ある寒い日、秀吉は信長が外出する前に、草履をふところで温めておいたと言われています。冷たい草履をはかずにすんだ信長は大よろこびし、秀吉の細かい気くばりを高く評価したそうです。一夜城(いちやじょう)のエピソード「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」と呼ばれる伝説があります。信長の命令で、敵の近くに急いで城を作る必要がありました。秀吉は、川を利用してあらかじめ作った木のパーツを組み立てる方法を考え、一晩で城を完成させたように見せかけたのです。豊臣秀吉と関連する人物一覧表人物名立場・関係説明織田信長主君秀吉は信長に仕えて力をつけた。信長の死後、天下を目指す。明智光秀敵信長を本能寺で討った(ほんのうじのへん)。秀吉が山崎の戦いで光秀をたおす。徳川家康同盟者/敵秀吉のもとでは仲間だったが、秀吉の死後に豊臣家とたたかう(関ヶ原の戦い)。石田三成家臣秀吉の家来で、まじめに国の仕事をした。秀吉の死後、家康と対立。千利休茶道の師茶の湯(茶道)を教え、文化を広めた。のちに秀吉と対立してしまう。北政所正室秀吉の妻。秀吉をささえた。ねね、という名前でも知られる。淀殿側室秀吉の子・秀頼(ひでより)を産んだ女性。大阪の陣で豊臣家をまもろうとした。豊臣秀頼秀吉の子秀吉のあとをつぐが、大坂の陣で徳川家康に敗れる。正室とは正式な妻(本妻)のこと。側室とは本妻以外の妻のこと関連するキーワード一覧キーワード内容詳細解説天下統一全国を一つにまとめること秀吉は日本をほぼ統一し、戦国時代を終わらせた。本能寺の変織田信長が殺された事件このあと、秀吉が光秀をたおして力をのばした。山崎の戦い秀吉と光秀の戦い秀吉が勝って、信長の後継者(こうけいしゃ)争いに勝った。太閤検地土地の広さを調べたこと全国の田んぼや土地を調べて、税金を正しく集めた。刀狩武器をとりあげる政策百姓(農民)が戦えないようにして、平和を守ろうとした。朝鮮出兵朝鮮(今の韓国)への遠征大きな戦いを海外で行ったが、失敗に終わった。大阪城秀吉が建てた巨大な城天下統一のシンボルとして、立派なお城を作った。金の茶室金ぴかの茶室秀吉の力と富をアピールするために作られた。関白天皇を助ける最高の役職武士から関白になった珍しい存在。太閤関白をやめた後の呼び名「太閤(たいこう)さん」と呼ばれ、親しまれた。
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  • 徳川家康がしたことを5つにまとめてみた(小学生向け)
    徳川家康って何をした人?1.関ヶ原の戦いで勝って天下を取った1600年、徳川家康は「関ヶ原の戦い」で、石田三成を中心とした西軍と戦いました。この戦いは日本全国の大名たちが東軍と西軍に分かれて戦った、まさに「天下分け目の戦い」と呼ばれるほどの大きな戦いです。戦いは1日で終わり、家康の東軍が大勝利!家康はこの戦いに勝利したことで実質的に日本の支配者となりました。関ヶ原の戦いは、家康が天下を取るための決定的な出来事だったのです。2.江戸幕府をひらいた関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に朝廷から「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命され、江戸に幕府を開きました。「征夷大将軍」とは、武士のリーダーとして国を治める役職です。これが「江戸幕府」の始まりで、日本の中心が京都や大阪から江戸(現在の東京)に移ることになりました。江戸幕府は約260年間続く長い時代、「江戸時代」のスタートとなります。家康は、幕府の仕組みをしっかり整え、将軍が政治を行う仕組みを作りました。家康の目標は、戦のない安定した国を作ることだったため、全国の大名たちが勝手に行動できないようにし、強い中央の力で国全体をまとめようとしたのです。3. 平和な時代をつくるしくみを作った戦国時代は、何十年もの間、日本中で戦いが続いていた乱れた時代でした。しかし、徳川家康が江戸幕府を開いたあと、日本は約260年間もの間、戦争のない平和な時代に入りました。家康は戦を防ぐため、大名同士が戦わないようにする制度を作り、政治の安定を保ちました。また、農業を重視し、人々がしっかり暮らせるように税の仕組みを整えました。町や村も発展し、教育や文化も栄えました。このようにして、家康が作った政治のしくみが、長い平和をもたらしたのです。人々が安心して暮らせる時代をつくった家康の功績は、日本の歴史の中でもとても大きなものだといえます。4. 大名をコントロールする仕組みを作った徳川家康は、戦国時代のように大名たちが自由に戦争を始めないように、さまざまなルールを作りました。そのひとつが「武家諸法度(ぶけしょはっと)」です。これは大名たちの行動を制限する法律で、幕府の許可なしに結婚したり、大きな城を建てたりすることができなくなりました。また、「参勤交代(さんきんこうたい)」という制度も重要です。これは、大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来しなければならない制度で、江戸での生活費がかかるため、戦の準備ができないようにしたのです。さらに、大名の家族を江戸に住まわせることで、人質のようにして反乱を防ぎました。これらの制度によって、大名たちは幕府に逆らうことができなくなり、平和が保たれました。5. 経済を発展させた徳川家康は、日本の経済を安定させるためにも多くの取り組みをしました。まず、全国で同じように使える「貨幣制度(かへいせいど)」を整えました。金や銀、銅などで作られたお金を使うことで、物の売り買いがしやすくなり、商人たちの活動が活発になりました。また、街道を整備して、人や物が行き来しやすくしました。とくに「東海道(とうかいどう)」などの道は、江戸と各地をつなぎ、商売や旅にとても役立ちました。さらに、市や町も発展し、商人や職人たちが活躍するようになりました。こうした家康の経済政策により、江戸時代には経済が大きく成長し、人々の暮らしも豊かになっていったのです。AI徳川家康に聞いてみたAIに徳川家康になってもらい、小学生からの質問に答えてもらいました。AI家康よし、わしは徳川家康じゃ。なんでも聞いてみるがよいぞ。どうして江戸に幕府を開いたの?AI家康うむ、良いところに気づいたのう。京都は古くからの都で、天皇さまもおられる大事な場所じゃ。じゃが、わしが江戸を選んだのには理由がある。江戸は当時まだ田舎じゃったが、海にも川にも近くて、物のやりとりがしやすい場所だった。また、まわりを山や海で囲まれて、守りもしやすかったのじゃ。それに、京や大坂からは少し離れておるから、まわりに気をつかいすぎず、自分の思い通りに政治をしやすかった。将来の発展を見すえて、あえて江戸を選んだのじゃよ。戦った相手の中で一番強かった武将は?AI家康わしが戦った相手の中で「一番強かった武将」と申すなら、武田信玄(たけだ しんげん)。この男こそ、もっとも手ごわかった相手じゃ信玄は、戦の天才じゃった。戦いの形(陣形)を自在にあやつり、「風林火山」の旗のごとく、速くて力強く、まるで大自然のごとき軍じゃった。わしが一度、三方ヶ原(みかたがはら)というところで戦ったときなど、まるで歯が立たず、ボロボロに負けたのじゃ…。そのとき、わしは命からがら城へにげ帰り、敗戦の自画像まで描かせたほどじゃ。実際に「しかみ像」というものが残っておる。恥をしのんで教訓にしたのじゃしかしのう、信玄どのが病に倒れなければ、わしは天下を取れなんだかもしれぬ…それほどにおそろしい男じゃった。織田信長と豊臣秀吉のことをどう思ってたの?AI家康信長公は、まさしく「革命の人」じゃ。古いしきたりを打ちこわし、新しい時代をつくろうとした。その勢いと知恵は天才的じゃった。わしは若いころから信長公と手を組み、何度も共に戦をした。ときには意見が合わぬこともあったが、「この男が天下を変えるかもしれぬ」と思っておった。ただのう……信長公は人をおそれぬ分、敵も多かった。あの本能寺の変も、まさに「強すぎるゆえに倒れた」――そういう最期じゃったと思うのう。秀吉どのは、わしにとっては「すごいけど、こわい男」じゃった。百姓(ひゃくしょう)出身から天下人にのぼりつめるという、まれなる努力の人。頭も切れるし、気配りもすごい。あっぱれというしかない。しかし、わしはその頭の回転の早さゆえに、いつ自分が追い落とされるか分からぬ…と、ずっと気をはっておったのじゃ。(実際、わしの家臣の一部は秀吉どのに取りこまれておったからのう…)じゃが、秀吉どのが亡くなったあとは、わしがその遺志を受け継ぎ、天下を安定させたつもりじゃ。江戸幕府が滅ぶとしたら、どんな理由だと思う?AI家康わしが思うに、江戸幕府が滅ぶとしたら、その理由はおそらく三つある。1.武士が仕事をしなくなること武士はもともと戦うためにおる。ところが平和が長く続くと、「戦わぬ武士」ばかりになる。そうなると、国を守るはずの者たちが、ただの役人やお金もちになるのじゃ。民の信頼も失われていくじゃろう。2.外国の力に負けることもしも外国の力が大きくなって、船や大砲でせめてくるようになったら――鎖国をして、外の国と交流を断っていたわしらの国は、すぐに困るじゃろう。知識も、武器も、話し合いもできぬまま、負けるかもしれん。3.民の声を無視しすぎたとき民が苦しんでおるのに、お上(幕府)だけがぜいたくをしていたら、いつかきっと、民は怒るじゃろう。一揆(いっき)や反乱がおこり、国がまとまらなくなる。「民を大事にせよ」とわしは言い残したが、それを忘れれば…幕府は終わる。どうすれば勉強が出来るようになりますか?AI家康わしも若いころは、兵法書(へいほうしょ)を読んでもすぐ眠くなっておったぞ…。じゃが、勉強が苦手でも、工夫しだいで変われるのじゃ1.得意なところから始めるのじゃわしがまずしたのは、「わかるところだけ読む」ことじゃ。むずかしいことを最初にすると、心が折れてしまうからのう。ちょっとでも「おもしろい」と思えるところを広げていけば、だんだん前に進めるぞ。2.毎日少しずつ続けるのじゃわしは「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」と申した。これは、「すぐできなくても、あせらず待て」という意味じゃ。勉強も、1日10分でもよい。毎日コツコツやれば、力はついていく。3.人に教えてみるのじゃわしは、学んだことを家臣に話して聞かせておった。人に教えると、記憶がグッと深まるのじゃ。家の人、友だち、ノートに向かってでもよい。「教えるつもりで学ぶ」と、どんどんわかるようになるぞ。4.比べるのは他人ではなく、昨日の自分秀吉どのも、最初は下っ端の足軽じゃった。だれでも最初は「できない」から始まる。昨日の自分よりちょっと進んだなら、それでじゅうぶん立派じゃ!徳川家康の調べ学習向け資料徳川家康の年表1543年三河(今の愛知県)に生まれる。名前は「竹千代」。1547年今川家の人質としてくらしはじめる。1560年今川義元が「桶狭間の戦い」で戦死。家康が独立しはじめる。1562年織田信長と「清洲同盟」を結び、協力する。1575年「長篠の戦い」で信長といっしょに武田軍をたおす。1582年本能寺の変で信長が死ぬ。家康は三河へ逃げて命を守る。1584年「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉と戦うが決着つかず。1590年豊臣秀吉に命じられて、関東に移り、「江戸」に入る。1600年「関ヶ原の戦い」で勝ち、日本のトップに近づく。1603年「征夷大将軍」になり、江戸幕府をひらく。1605年将軍を子ども(徳川秀忠)にゆずるが、影で政治を続ける。1615年「大阪夏の陣」で豊臣家をほろぼす。戦国時代が終わる。1616年死去。「日光東照宮」にまつられる。徳川家康と関係のある人物一覧表人物よみ人物像家康との関係今川義元いまがわ よしもと駿河の大名。桶狭間の戦いで戦死。少年時代、家康は今川家の人質だった。織田信長おだ のぶなが天下統一前に本能寺の変で死ぬ。家康と同盟をむすび、いっしょに戦った。豊臣秀吉とよとみ ひでよし信長のあとに天下を統一。家康を関東へうつした。徳川秀忠とくがわ ひでただ家康の息子で、2代目将軍。家康から将軍の地位をゆずられた。徳川家光とくがわ いえみつ家康の孫で、3代目将軍。家康の政治を受けつぎ、幕府を安定させた。石田三成いしだ みつなり豊臣家の家来で政治が得意。関ヶ原の戦いで家康と戦い、敗れる。本多忠勝ほんだ ただかつ家康の家来で、とても強い武将。家康の右うでとして、たくさんの戦いに出た。井伊直政いい なおまさ家康の家来。家康の東軍の中でも中心の力をもった。真田幸村さなだ ゆきむら大坂の陣で活やくした武将。家康の大きな敵の一人だった。何問わかる?徳川家康クイズ問題ヒント正解徳川家康は何県に生まれた?昔の「三河の国」愛知県家康の子どものころの名前は?○○千代という名前竹千代家康を人質にしていた大名はだれ?桶狭間で負けた人今川義元家康が結んだ信長との同盟は?地名がついてる清洲同盟家康が勝った大きな戦い(1600年)は?日本を二つに分けた戦い関ヶ原の戦い江戸幕府をひらいた年は?関ヶ原の3年後1603年家康が幕府をひらいた都市は?今の東京江戸家康が倒した豊臣家の最後の戦いは?夏と冬がある戦い大坂の陣家康が死んでまつられた神社は?栃木県にある日光東照宮家康の家来で「無敵」といわれた武将は?一度も負けなかった本多忠勝家康が戦った「赤いよろい」の軍を持つ家来は?○○直政井伊直政家康の孫で3代将軍になったのは?「光」の字が入る徳川家光家康と戦った豊臣の武将で「六文銭」で有名なのは?「真田丸」も人気真田幸村江戸幕府は何代つづいた?約260年つづいた15代家康のことを神様としてまつった名前は?○照○○○東照大権現「鳴かぬなら…」の家康バージョンは?辛抱づよい性格鳴くまで待とうホトトギス家康が最初に住んでいたお城は?愛知県にある岡崎城家康が江戸に来たのは何年?秀吉に命じられた1590年
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  • 西郷隆盛がしたことを小学生向けにAI西郷どんが解説
    西郷隆盛ってナニをした人?小学生向けに解説ふるい日本を変えるために「討幕運動」をした西郷隆盛は、江戸時代の終わりごろ、今の鹿児島県にあたる薩摩藩のリーダーの一人でした。当時の日本は、黒船が来たり、外国との貿易が始まったりして、江戸幕府の力が弱まっていました。西郷さんは、「このままでは日本は外国に負けてしまう」と心配し、幕府を倒して、新しい国をつくる必要があると考えました。これが討幕運動です。その中心となったのが、薩摩藩と長州藩の同盟で、この同盟でも西郷さんが活躍しました。AI西郷隆盛わしは、ふるい幕府のやり方では、日本は外国におくれてしまうと強く感じておった。黒船が来てからというもの、日本は目をさまさねばならん。わしら薩摩と長州が手を組めば、幕府に対抗できる。新しい時代をつくるためには、戦もさけられんこともある。じゃっどん、日本の未来のためなら、命をかけてもよかと覚悟したんじゃ。江戸城を戦わずにあけわたさせた「無血開城」1868年、幕府と新政府の間で「戊辰戦争」という内戦が始まりました。江戸をめぐる戦いが大きくなれば、多くの町人や市民が命を落としてしまいます。そこで西郷さんは、幕府の側にいた勝海舟と話し合いをしました。その結果、江戸城を戦わずに新政府に引きわたすことができたのです。これが「無血開城」とよばれ、戦争による大きな被害をふせぎました。AI西郷隆盛わしは、戦(いくさ)をして江戸の町を焼きはらうつもりはなかった。江戸にはたくさんの民がおる。町人も、子どもも、女もおる。無駄に血を流すより、話し合いで平和におさめる道を選びたかった。勝海舟どんと会うたとき、心からそう思った。敵どうしじゃったが、国を思う心は同じじゃった。江戸城を戦わずに開けさせることができたとき、心からほっとしたもんじゃ。新しい国のしくみをつくる仕事をした新しい時代「明治」が始まると、西郷さんは明治新政府の中心人物として活躍します。武士の時代から、市民が中心となる社会へと大きく変わる中で、税金のしくみや軍隊の制度など、たくさんの改革が行われました。特に、西郷さんはえらい人だけでなく、みんなが国を支えるという考え方を大切にしていました。その姿勢は、のちの徴兵制度や教育制度にもつながっていきます。AI西郷隆盛わしは武士じゃったが、これからの世は、身分に関係なく、すべての人が国のために力を出す時代だと考えておった。百姓も町人も、学び、働き、国をつくる一員になるべきじゃ。だからこそ、士族だけの時代は終わらせねばならんかった。つらい思いをする者もおったが、それでも前に進まねばならん。わしのすることが、未来の子どもたちのためになると信じておった。「徴兵令」で国民の兵隊をつくった江戸時代には、戦うのは武士のしごとでした。しかし西郷さんは、「これからはすべての国民が国をまもるべきだ」と考えました。そこで、満20歳以上の男子が兵役につく「徴兵令」を出し、国の軍隊をつくるしくみをスタートさせました(1873年)。この制度によって、日本は外国のように国民全体で国を守る近代的な軍隊を持つことができるようになりました。AI西郷隆盛わしは思うたんじゃ。日本を守るのは、武士だけの役目ではないと。これからは、すべての男子が、国のために力を出すべきじゃと。徴兵令は、みんなには重たい制度に見えるかもしれん。しかし、外国に負けぬ強い国をつくるには、みなが兵となり、心を一つにせねばならん。その覚悟を、日本中に広げたかったんじゃ。明治政府に反対して「西南戦争」をおこした西郷さんは、明治政府でいろいろな改革を行いましたが、次第にそのやり方に強い不満を持つようになりました。特に、「昔ながらの武士の生き方を大事にしたい」という思いと、新政府の冷たい政治との間で、大きな考えのちがいが出てきました。1877年、西郷さんはふるさとの鹿児島で西南戦争をおこします。政府軍との戦いにやぶれて、西郷さんは亡くなりますが、さいごまで自分の信じた道をつらぬいたことで、今も多くの人に尊敬されています。AI西郷隆盛わしは、明治政府が変わってしまったと感じた。官(お上)ばかりが力を持ち、民の声は届かなくなった。わしが信じとったのは、人の道、武士の心じゃ。私利私欲でなく、正しさを大事にする国であってほしかった。だからこそ、ふるさと鹿児島に戻り、最後の戦を決意した。わしは負けたが、心はまけておらん。わしの思いが、いつか伝わると信じちょる。調べ学習「西郷隆盛」のヒント西郷隆盛は日本の大きな変わり目に立った人西郷隆盛は、江戸から明治という日本の大きな変化の時代を生きぬき、新しい国づくりに力をつくした人物です。政治の仕事をしただけでなく、人びとのくらし・教育・国のしくみなど、今の日本のもとになるようなことをたくさん始めた人でもあります。その一方で、最後は政府とたたかうことになりましたが、それも「まちがっていると思ったことに目をつぶらない」強い正義感からでした。だからこそ、今でも「西郷さんはすごい」と多くの人に言われているのですね。調べ学習に使える西郷隆盛年表1828年0歳薩摩藩(今の鹿児島県)で生まれる。1844年16歳藩の役所で働き始める。まじめで正義感の強い性格だった。1854年26歳黒船が来たあとの日本で、外国とのつきあい方を考える動きに関わる。1858年30歳藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)を手助けして政治に参加。1858年30歳島津斉彬が亡くなり、島に流される。1862年34歳薩英戦争で、イギリスと戦うが、その後は仲直りの道をさぐる。1864年36歳長州藩と手を組み、幕府をたおす計画に動く。1868年40歳明治維新で新しい政府づくりの中心メンバーとして活やく。1871年43歳政府の中で役職につくが、西洋への留学(岩倉使節団)に反対して意見が対立。1873年45歳政府をやめて鹿児島にもどる。1877年49歳西南戦争で政府と戦うが、負けて自害する。1898年(死後)明治政府から名誉(めいよ)を回復され、「国を思う志士」としてたたえられる。西郷隆盛クイズ1.西郷隆盛はどこで生まれたでしょう?A.京都B.大阪C.鹿児島D.江戸2.西郷隆盛が外国(イギリス)と戦った戦いは?A.西南戦争B.戊辰戦争C.長州征討D.薩英戦争3.明治維新で西郷隆盛が行ったこととして正しいのは?A.江戸城を戦って焼いたB.江戸城を戦わずに引き渡させたC.京都を外国に売ったD.島原の乱を起こした4.西郷隆盛が最後に戦ったのは?A.日露戦争B.戊辰戦争C.西南戦争D.太平洋戦争5.西郷隆盛の死後、明治政府はどうしたでしょう?A.名前を消したB.家を焼いたC.記録をすべてなくしたD.名誉を回復してたたえた【正解】Q1.C、Q2.D、Q3.B、Q4.C、Q5.D
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