
平清盛は、武士でありながら朝廷の最高の役職「太政大臣(だいじょうだいじん)」にまでのぼりつめたすごい人物です。
それまでは、政治の中心にいるのは貴族たちで、武士は戦うだけの仕事と思われていました。でも、清盛は戦でも活やくし、そして政治でも力をつけていき、ついに一番えらい役職にまで出世しました。
これは、日本の歴史の中でとても大きなできごとでした。清盛の出世によって、武士という存在が日本の政治の中心に出てくるようになったのです。このことが、のちの「武士の時代」つまり「鎌倉時代」や「江戸時代」につながっていきます。清盛がいなければ、もしかすると武士の時代はもっと遅れていたかもしれませんね。
平清盛は、自分の家族や親せき(これを「一族」といいます)を大事な役職につけることで、「平氏(へいし)」という一族を国のトップにしました。
今でいう「会社の社長の家族がみんな役員になる」ようなイメージです。
清盛は、自分ひとりで力を持つだけでなく、一族全体で国を動かすようにしたのです。
人々はその力の強さにおどろき、「平氏にあらずんば人にあらず(平氏でなければ人間ではない)」という言葉まで生まれました。それほどまでに、平氏が国を支配していたのです。ただし、あまりに力を持ちすぎたため、ほかの人たちからねたまれたり、反対されたりすることも増えていきました。
平清盛が名を上げるきっかけになったのが、「保元の乱(ほうげんのらん)」と「平治の乱(へいじのらん)」という二つの戦いです。どちらも、朝廷の中での争いや、貴族どうしのけんかから始まりましたが、武士たちも巻きこまれる大きな内乱になりました。
清盛は、この戦いで勝ち、「戦に強い武士」として一気に有名になりました。特に「平治の乱」では、ライバルだった源義朝(みなもとのよしとも)をたおし、その子どもである源頼朝(みなもとのよりとも)を伊豆(いず)に流しました。
この勝利によって、清盛は「戦でも、政治でも、力を持つ男」として注目され、出世の道を進んでいったのです。この二つの乱がなかったら、清盛が歴史に名を残すことはなかったかもしれません。
平清盛は、外国との貿易にも力を入れました。
特に、中国の「宋(そう)」という国との交流を大切にしました。
清盛は、日本の港である「大輪田の泊(おおわだのとまり)」を今の神戸あたりに作り、そこから船を出して宋と物をやりとりしました。これによって、日本には宋から新しい文か、仏教の本、薬、布などが入ってきました。
逆に日本からは刀、金、すずなどを送りました。貿易はおたがいの国にとってとても大事なもので、清盛はそれを早くから始めていたのです。このおかげで日本は海外の新しい考えや技術を学ぶことができました。今でいうと、「世界とつながるグローバルな政治家」だったとも言えるでしょう。
清盛の娘「徳子(とくし)」は、高倉天皇(たかくらてんのう)と結婚しました。
二人の間には子どもが生まれ、その子が「安徳天皇(あんとくてんのう)」になりました。
つまり、清盛は天皇の「外祖父(がいそふ)」=母方のおじいちゃんになったということです。これはとても大きなことで、政治の中でさらに強い立場になりました。
天皇の祖父というだけで、清盛の言うことは強い力を持つようになります。
清盛はこの関係を使って、自分たちの政治のやり方を進めました。
ただし、このように家族ぐるみで政治を動かすやり方は、ほかの人たちから反感を買うことにもなりました。やりすぎると、まわりの人の反発が強くなるということですね。
平清盛は、宋との貿易を利用してたくさんのお金を手に入れました。
そのお金で、船を作ったり、港をきれいにしたり、自分たちの家を立派にしたりしました。
貿易というのは、ただ物を交換するだけでなく、大きなお金を動かすビジネスでもあります。
清盛は、その仕組みをよく理解していて、国をゆたかにしようとしたのです。
このお金は、自分の一族を支えるためにも使われ、平氏の力のもとになっていきました。また、お金があることで、武士や役人たちも平氏の味方になるようにしむけることができました。
戦だけでなく、お金の使い方もうまかった清盛は、まさに「戦う政治家」だったと言えるでしょう。
平清盛の時代、「平家(へいけ)」=平氏が国の中心にいて、「平家の世(よ)」と呼ばれる時代になりました。
しかし、力を持ちすぎたことで、まわりの人々の反感が強くなっていきます。
特に、伊豆に流された源頼朝が、後に挙兵(きょへい)して戦いを始めたことがきっかけで、平氏は少しずつ追いつめられていきました。清盛はその途中で病気になって亡くなってしまいます。
その後、平家は源氏との戦いに敗れ、「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で安徳天皇とともに海に沈みました。清盛が作り上げた「平家の世」は、わずか30年ほどで終わってしまったのです。けれども、清盛が政治や経済で果たした役割は、とても大きなものでした。
AIに平清盛になってもらって、小学生からの質問に答えてもらいました。
ほほう、よい質問じゃのう。
わしは武士として、戦ではたらき、都のえらい人たちに信頼されるようになったのじゃ。
特に「保元の乱」や「平治の乱」で勝ったことで、わしの力はぐんと強くなった。
そのあと、朝廷の仕事もがんばって、「太政大臣」という役にまで登りつめたのじゃ。
武士がえらくなるのはめずらしい時代だったが、わしがその道を切りひらいたんじゃぞ。
うむ。わしは、日本だけではなく、もっと大きな世界とつながりたいと思ったのじゃ。中国の「宋」という国は、文化も技術も進んでおって、そこから学ぶことはたくさんあると思ったんじゃ。
それに、物を売ったり買ったりすれば、お金も手に入るし、日本の暮らしもよくなる。だから、港を作って、船を出して、外国と物のやりとりを始めたのじゃ。今でいう「グローバル社会」を目指したのう。
よいところに目をつけたのう。
国をおさめるには、信頼できる人といっしょに動くことが大切じゃ。
だから、わしは自分の家族や親せきを大事な役職につけて、国を一緒に支えてもらったのじゃ。もちろん、ねたまれることもあったが、「平氏の世」をつくるには、それが一番じゃと思ったんじゃよ。
ぐぬぬ…そこを聞くか…。
実はな、源頼朝はまだ子どもで、すぐに力を持てるようには見えなかったのじゃ。
だから、命を取らずに伊豆に流しただけだった。しかし、それがあやまりじゃった…。まさかのちに大きな力をつけて、わしの一族をたおすことになるとはのう…。わしの人生で唯一ともいえる、油断だったかもしれんのう。
あるとも!わしが伝えたいのは、「新しいことをおそれずに挑戦せよ」ということじゃ。
わしは、武士なのに政治をし、外国とつながり、時代の流れを変えたつもりじゃ。
それは、まわりに何と言われようと、自分で考えて動いたからこそできたことじゃ。みんなも、まわりと同じでなくても、自分の道を信じて進んでほしいのう。