豊臣秀吉がしたことを5つにまとめてみた(小学生向け調べ学習用)

豊臣秀吉がしたことを5つにまとめてみた

豊臣秀吉がした5つのこと

天下統一を完成させた

豊臣秀吉は、もともと織田信長の家来でした。信長は「天下統一」を目指して各地を攻めていましたが、1582年、「本能寺の変」で家来の明智光秀に裏切られて命を落とします。

 

信長の死後、秀吉はすぐに動き、山崎の戦いで光秀を討ち取りました。
これによって、信長の後継ぎ争いに勝ち、力を強めていきます。

 

その後、各地の大名を次々に従わせ、1585年に関白となり、1590年には小田原を中心とする北条氏を滅ぼして、「天下統一」を成し遂げました。

 

太閤検地を行った


秀吉は、国をしっかり治めるために「太閤検地(たいこうけんち)」を行いました。
「検地」とは、田んぼや畑の広さや、そこからとれるお米の量を正しく調べることです。

 

それまで土地の広さや持ち主はあいまいだったため、不公平なことが多く起きていました。秀吉は全国の土地を調べて、「誰が」「どれくらいの田んぼを持っているか」を記録し、年貢=税金として納めるお米の量をはっきり決めたのです。

 

この検地によって、農民は土地にしっかりしがみつくことができ、大名も安心して国を治められるようになりました。

 

太閤検地では、「石高(こくだか)」という単位が使われます。
1石(こく)はお米が約150kg、だいたい人が1年間食べる量にあたります。

 

この「石高」によって、領地の力(経済力)が数字で示されるようになりました。太閤検地は、江戸時代のしくみのもとにもなった、とても重要な改革です。

 

刀狩を行った

豊臣秀吉は、1590年ごろから「刀狩(かたながり)」という政策を進めました。
これは、農民たちが持っていた刀や弓、槍(やり)などの武器を集めて取り上げることです。

 

なぜこんなことをしたのでしょうか?

 

それは、農民たちが反乱を起こすのを防ぐためです。当時の日本では、農民の中にも武器を持っている人が多く、時には反乱を起こして国を乱すことがありました。

 

秀吉は、「武士」と「農民」の区別をはっきりさせ、農民は田んぼを作ることに専念させるために刀狩を行ったのです。

 

集めた武器は、奈良の大仏殿(だいぶつでん)を作る材料にした、とも言われています。
これによって、国は平和に近づき、農業も安定しました。

 

刀狩は、武士と農民をはっきり区別する「身分制度」のスタートでもあり、のちの江戸時代の社会づくりにもつながっていきます。

 

朝鮮出兵をした

豊臣秀吉は、日本だけでは満足せず、海外にも目を向けました。
1592年、朝鮮半島に大軍を送る「朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)」を始めます。

 

中国の明(みん)を征服しようと考え、その通り道である朝鮮を攻めたのです。
この戦いは「文禄(ぶんろく)の役」と呼ばれます。

 

最初は日本軍が優勢でしたが、やがて朝鮮軍や明の援軍の反撃にあい、思うように進みませんでした。
一時休戦したものの、1597年にはふたたび戦いが始まります(「慶長(けいちょう)の役」)。

 

しかし、秀吉が1598年に亡くなると、日本軍はすぐに引き上げました。
朝鮮出兵は、日本にとっても多くの犠牲を出し、国の力を消耗させた戦いでした。

 

大阪城を築いた


豊臣秀吉は、自分の権力を全国に示すために、大きくて立派な城を築きました。
それが「大阪城」です。

 

1583年ごろから建設が始まり、当時としてはとても大きく、豪華な城でした。大阪城は、周りを堀(ほり)と高い石垣(いしがき)でかため、敵が簡単には攻め落とせないように作られていました。

 

また、天守閣とよばれる高い建物もあり、金箔を使ったきらびやかな装飾もほどこされました。
この大阪城は、ただの城ではありません。秀吉が「天下を取ったぞ!」ということを日本中にアピールするための象徴でもあったのです。

 

のちに徳川家康との「大坂の陣」で大阪城は攻め落とされ、豊臣家は滅亡しますが、大阪城は今も観光名所として多くの人に親しまれています。


AI豊臣秀吉が小学生の質問に答える!

AIが豊臣秀吉になり切って小学生からの質問に答えます。

 

関白ってどんな仕事だったの?どうしてなれたの?

AI秀吉

AI秀吉

 

関白とは、天皇さまの代わりに政治をする偉い役目じゃ。もとは貴族がなるものじゃったが、わしの力と知恵を認められて、特別にならせてもらったんじゃ。百姓あがりでは前代未聞じゃぞ!

 

「刀狩り」ってなんのためにしたの?

AI秀吉

AI秀吉

 

うむ、刀狩りは、百姓が武器を持って反乱を起こさぬようにするためじゃ。戦が終わったら、武器はいらん。みなが農業に専念できるよう、安心して暮らせるようにしたかったんじゃよ。

 

朝鮮に戦いに行ったのはなぜ?日本だけじゃダメだったの?

AI秀吉

AI秀吉

 

ふふふ、わしはもっと大きな夢を持っておった。中国(明)を手に入れて、大きな国を作りたかったんじゃ。そのために朝鮮を通って攻めようとしたのじゃが……思ったより手ごわかったのう。

 

戦った相手で一番強かったのは誰?

AI秀吉

AI秀吉

 

柴田勝家(しばた かついえ)。
こやつが、わしにとって最初にして最大の強敵じゃった!

 

天正11年(1583年)の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、信長さまの死後、後継ぎ争いでわしと勝家がぶつかった。

 

勝家は経験豊富な武将で、戦いぶりも豪胆そのもの。兵も多く、わしにとっては大ピンチじゃったが……そこでわしの家臣・福島正則や加藤清正らが大活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」として名をあげたんじゃ。

 

わしはすばやく軍を動かして勝家を破った。
あれはまさに、「知恵」と「スピード」で勝った戦じゃな。

 

信長がこわくなかったの?

AI秀吉

AI秀吉

 

めちゃくちゃ、こわかったぞ!あの方はな、目がすわっていて、機嫌が悪いと家臣をバッサリ切ることもあった。下っ端のころは、そりゃもう、ピリピリじゃ。

 

でもな、信長さまは「できる者はどんどん出世させる」お方じゃ。わしのような身分の低い者にもチャンスをくださった。それが、うれしかったんじゃよ。

 

こわかったけれど、心の底から尊敬しておった。
わしが天下を取れたのも、信長さまのそばで学べたからじゃ。

 

信長さまが本能寺で倒れたとき、わしは心の中でこう叫んだんじゃ。
「信長さま、ここからはわしがやりまする!」とな。

 

信長さまはこわいけど、すごい人。わしはその背中を見て育ったんじゃ。怒られても、がんばる気持ちを忘れなかった。それが、わしの出世のもとじゃよ!

 

徳川家康のことをどう思う?

AI秀吉

AI秀吉

 

おお、またもや気になるところを聞いてくるのう!
―「徳川家康のことをどう思うか?」じゃと?それはのう……

 

ずばり、「油断ならぬキツネのような男」じゃ。見た目はおだやかで、のんびりしているように見えるが、心の中では常に計算し、じっとチャンスをうかがっておる。

 

しかも、我慢強い。わしがイライラしておるころでも、家康は笑って何も言わん。だが、それがこわいんじゃ……。

 

わしが生きておるうちは、重く用いておった。天下統一のためには、家康の力も必要じゃったからのう。「お主は東国(関東)をまかせる」と言って、立派な城も与えておったんじゃ。

 

じゃが……わしが死んだあと、やはり動いたのう。息子・秀頼の代で、家康はとうとう「将軍」になり、豊臣を押しのけて天下を取ったんじゃ。

 

正直に言えば――「うまくやりおったな、家康め!」「じゃが、わしのような派手さはなかったのう!」じゃ。

 

わしは金ぴかの城に、天下統一の夢!
家康は地味にコツコツ、でも最後はしっかり勝ち残る。そんな男よ。

 

いま日本では、お米が高くなって困っているんですが、秀吉さんならどうしますか?

AI秀吉

AI秀吉

 

おお、それはなかなかの難題じゃのう……。米が高くて人々が困っておるとな!?――ならば、わし、豊臣秀吉が出てまいろう!

 

秀吉ならどうする? 〜太閤流・お米対策〜
「米のたくわえ」を調べさせる!

まずは全国の米の収穫と在庫をしっかり調べる。
これはわしがやった「太閤検地(たいこうけんち)」の出番じゃ!

 

誰の土地に、どれだけ米がとれて、どこに保管されているか――。
それを正しく知ることが、まず第一じゃ!

 

米以外の作物も広める!

米だけが食べ物ではない。

 

わしは「芋」「麦」「雑穀」なども育てるように命じるじゃろう。
食べものの選択肢を広げて、みんなが食べられるようにするんじゃ!

 

「米の市場」を安定させる

米の値段が急に上がったり下がったりすると、民は困る。
わしは「米座(こめざ)」をつくって、値段が安定するしくみを考えるぞい。

 

市場にまかせきりではあかん。
天下人の目が届いてこそ、民は安心して暮らせるのじゃ!

 

一番大事なのは、「民を思う心」じゃ!

わしが農民出身だからこそ、
「食えぬつらさ」は骨身にしみてわかっておる!

 

民が腹をすかせて笑えぬ国に、天下の価値はない。
だからこそ、わしは民が飢えぬように、手を尽くすのじゃ!

 

最後にひとこと(太閤節)

「米が高けりゃ、知恵で下げよ!」
「民の暮らしを守るのが、天下人のつとめじゃ!」

 

わしなら――まず米を調べ、かくす者をただし、みんなが食える世にしてみせる!それが豊臣秀吉という男よ!


豊臣秀吉の調べ学習ヒント

豊臣秀吉の年表

1537年 尾張国(今の愛知県)の貧しい家に生まれる(幼名:日吉丸)
1560年頃 織田信長につかえる。足軽(あしがる)からスタート
1566年 墨俣城を一夜で築く
1570年 姉川の戦い
1582年 本能寺の変、山崎の戦いで明智光秀を破る
1583年 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家に勝利
1584年 小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦う
1585年 関白(かんぱく)になる
1586年 太政大臣(だいじょうだいじん)に就任、「豊臣」姓をもらう
1590年 小田原攻めで北条氏を滅ぼし、天下統一を完成させる
1592年 文禄の役(最初の朝鮮出兵)を始める
1597年 慶長の役(2度目の朝鮮出兵)を始める
1598年 死去(享年62歳)

 

豊臣秀吉の有名なエピソード

草履取り(ぞうりとり)のエピソード

若いころ、秀吉は織田信長に仕える下働き「草履取り」をしていました。ある寒い日、秀吉は信長が外出する前に、草履をふところで温めておいたと言われています。
冷たい草履をはかずにすんだ信長は大よろこびし、秀吉の細かい気くばりを高く評価したそうです。

一夜城(いちやじょう)のエピソード

「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」と呼ばれる伝説があります。信長の命令で、敵の近くに急いで城を作る必要がありました。秀吉は、川を利用してあらかじめ作った木のパーツを組み立てる方法を考え、一晩で城を完成させたように見せかけたのです。

 

豊臣秀吉と関連する人物一覧表

人物名 立場・関係 説明
織田信長 主君 秀吉は信長に仕えて力をつけた。信長の死後、天下を目指す。
明智光秀 信長を本能寺で討った(ほんのうじのへん)。秀吉が山崎の戦いで光秀をたおす。
徳川家康 同盟者/敵 秀吉のもとでは仲間だったが、秀吉の死後に豊臣家とたたかう(関ヶ原の戦い)。
石田三成 家臣 秀吉の家来で、まじめに国の仕事をした。秀吉の死後、家康と対立。
千利休 茶道の師 茶の湯(茶道)を教え、文化を広めた。のちに秀吉と対立してしまう。
北政所 正室 秀吉の妻。秀吉をささえた。ねね、という名前でも知られる。
淀殿 側室 秀吉の子・秀頼(ひでより)を産んだ女性。大阪の陣で豊臣家をまもろうとした。
豊臣秀頼 秀吉の子 秀吉のあとをつぐが、大坂の陣で徳川家康に敗れる。

正室とは正式な妻(本妻)のこと。側室とは本妻以外の妻のこと

 

関連するキーワード一覧

キーワード 内容 詳細解説
天下統一 全国を一つにまとめること 秀吉は日本をほぼ統一し、戦国時代を終わらせた。
本能寺の変 織田信長が殺された事件 このあと、秀吉が光秀をたおして力をのばした。
山崎の戦い 秀吉と光秀の戦い 秀吉が勝って、信長の後継者(こうけいしゃ)争いに勝った。
太閤検地 土地の広さを調べたこと 全国の田んぼや土地を調べて、税金を正しく集めた。
刀狩 武器をとりあげる政策 百姓(農民)が戦えないようにして、平和を守ろうとした。
朝鮮出兵 朝鮮(今の韓国)への遠征 大きな戦いを海外で行ったが、失敗に終わった。
大阪城 秀吉が建てた巨大な城 天下統一のシンボルとして、立派なお城を作った。
金の茶室 金ぴかの茶室 秀吉の力と富をアピールするために作られた。
関白 天皇を助ける最高の役職 武士から関白になった珍しい存在。
太閤 関白をやめた後の呼び名 「太閤(たいこう)さん」と呼ばれ、親しまれた。