濱口梧陵(はまぐちごりょう)について

稲むらの火のモデル濱口梧陵(はまぐちごりょう)ってどんな人?

「稲むらの火」のモデルになった濱口梧陵(はまぐちごりょう)がどんな人だったのかを小学生向きに解説しています。

 

濱口梧陵(はまぐちごりょう)は何時代の人?

濱口梧陵(はまぐちごりょう)の写真

左の写真の人物が濱口梧陵(はまぐちごりょう)です(写真出所:ウィキメディア・コモンズ)。

 

写真の古さから、かなり昔の人だなということがわかるかと思いますが、濱口梧陵が生まれたのは1820年(7月24日)。江戸時代の後期で、第11代将軍徳川家斉の頃です。

 

徳川将軍は第15代までなので第11代のときということから江戸時代の後のほうだとわかるかと思います。

 

この頃にどんなことがあったかというと、日本近海に外国船が現れるようになったため、鎖国をしていた江戸幕府は1825年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)というのを出しています。

 

濱口梧陵(はまぐちごりょう)の年表

1820年紀伊国有田郡広村(いまの和歌山県)で生まれる
1853年ヤマサ醤油の社長になる(34歳)
1854年「稲むらの火」で多くの村人を救う(35歳)
1871年駅逓頭(えきていし※現在の郵政大臣)になる
1871年和歌山県知事になる(52歳)
1885年ニューヨークで亡くなる(66歳)

 

濱口は江戸時代の後期から明治時代初期にかけて活躍した人物で、福沢諭吉や勝海舟などとも交流がありました。政治家として和歌山県知事などにもなっています。

 

稲むらの火とは?

稲むら(いなむら)とは、刈り取った稲を積み重ねておいたもののことです。

 

濱口は大きな地震の後には津波が襲ってくるということを知っていたため、大地震の後に稲むらに火をつけることで危険を知らせ、村人を高台に避難させました。

 

このことを知ったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「A Living God(生ける神)」として濱口を書物で紹介し、中井常蔵が「稲むらの火」という物語にしました。

 

濱口の功績は稲むらに火をつけて津波の危険を知らせたことだけではありません。私財(自分のお金など)を投じて、村人のために津波の被害を防ぐための堤防を建設しました。

 

稲むらの火の物語はYouTubeなどでも紹介されているので、興味のある人は見てみてください。

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