点字を発明したルイ・ブライユの人生を年表形式でまとめました。
下記にある年表でくわしく確認してみましょう。
西暦 | 年齢 | できごと |
---|---|---|
1809年 | 0歳 | 1月4日フランスで誕生 |
1812年 | 3歳 | 片目を失明 |
1814年 | 5歳 | 両目が見えなくなる |
1816年 | 7歳 | クーブレの学校に入る |
1819年 | 10歳 | パリの王立盲学校に入る |
1821年 | 12歳 | バルビエのソノグラフィーを知る |
1824年 | 15歳 | ソノグラフィーを改良して6点点字を作る |
1826年 | 17歳 | 代数、地理、文法を教える |
1828年 | 19歳 | 王立盲学校の正式な先生になり、文法、地理。算数、音楽を教える。楽譜を書く方法を考えはじめる。 |
1829年 | 20歳 | 「点を使ってことば、楽譜、かんたんな歌を書く方法―盲人のために作られた盲人が使う本」を出版 |
1833年 | 24歳 | 教会のオルガン奏者になる |
1835年 | 26歳 | 肺結核の徴候を示す |
1847年 | 38歳 | フーコーと協力してブライユタイプライターを完成させる |
1839年 | 30歳 | 点字を印刷する機械の開発を始める |
1843年 | 34歳 | 健康が悪化→クーブレ村で6ヶ月療養 |
1852年 | 43歳 | 1月6日病気のため死去 |
ルイ・ブライユは生まれつき目が悪かったわけではありません。3歳のときにお父さんの仕事場でけがをしてしまい、片方の目が見えなくなってしまいます。
昔は治療法もなかったため、感染症から5歳になるころには、もう片方の目も見えなくなってしまいました。
ルイは村の学校に目の見える子と一緒に通っていましたが、10歳になったときパリにある目の見えない子たのための学校(王立盲学校)に通うことになります。
クーブレ村から王立盲学校があるパリまでは40キロ以上も離れています。このためルイは寄宿舎でほかの子たちと一緒に寝泊まりして学校生活を送ることとなりました。
それが10歳のとき。
親元を離れて、さみしかったかもしれませんね。
パリの王立盲学校に入ったルイ・ブライユは、そこで目の見えない人たちのための文字を知ります。バルビエという軍人が作ったソノグラフィーというものです。
このソノグラフィーを改良して、使いやすくしたのがルイ・ブライユの点字です。
ルイが15歳のときに作ったものです。
目の見えない人たちのあいだでは使いやすいと評判だったのですが、フランス政府がルイの点字を正式に認めるのは、ルイが亡くなってからとなりました。
ルイ・ブライユの誕生日は1809年1月4日。
同じ年に生まれた人にはアメリカの大統領になったエイブラハム・リンカーンがいます。
ルイ・ブライユが生まれたクーブレ村はディズニーランド・パリの近くにある村です。
ルイには2人の姉と1人の兄がいました。
末っ子だったルイは家族みんなから可愛がられていました。
ルイは自分が勉強した学校で先生となり、算数や地理、音楽などを教えました。
ルイには音楽の才能もありました。学校でのピアノの授業が得意でしたし、大人になってからはオルガン奏者として教会でオルガンも弾いていました。
ブライユ家があった通りはシュマン・デ・ビュットと呼ばれていましたが、ルイが点字を発明して、世界的に有名になったことから、ルイ・ブライユ通りと名前が変わりました。